長尾山南斜面の住宅地

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長尾山南部斜面は、六甲連山の東部斜面にみられたようなきびしさはなく、恵まれた条件のもとにあった。加えて、明治三十年の阪鶴鉄道の開通、四十三年の箕面有馬電気軌道の運輸営業開始により、大阪からきわめて便利のよい土地となった。地元の人達も長尾山訴訟問題が落着し、大阪の人達が求める別荘地の需要に応じる態勢も整ってきた。
 明治四十年前後と思われるが、長尾山の東部満願寺にいたる道の近くに、東塚一吉が炭酸泉を開削し、旅館を開業した。大正期にはいって、この花屋敷温泉まで客を自動車で送迎した。このころから第一次大戦による好景気に乗って、長尾山東南部斜面の地を住宅地化する気運が生じてきた。
 阪急電車宝塚線の市域における停留場は、宝塚―清荒神―(売布)―中山―山本―平井―雲雀丘であり、つぎの駅花屋敷は川西市域にあったが、宝塚市域への東の玄関口であった。大正三年七月第一次世界大戦が始まり、四年後半以降は戦争景気で成金が続出するという時勢となったが、雲雀丘・花屋敷付近の山麓地約一万坪を阿部元太郎が分譲した。これが長尾山の最初の住宅地となった。山の緑を背景に、南前方にひろがる西摂平野の眺望に加えて、山本の植木と造園の技術を生かした庭と、大正の文化を象徴する洋式邸宅が階段状に建築され始めた。電気や電話の配線を地下へ埋め、便所は水洗にして下水を完備した、全国でも初めてのブルジョア住宅地帯であった。長尾山一帯は川辺郡西谷村大字切畑に属していたので、花屋敷・雲雀丘の住民の納める税金は、西谷村の財政を大きくうるおしていた。