大正期から昭和初期にかけて、この付近の住宅地化は花屋敷土地株式会社によっておこなわれていたが、昭和二年にこの会社から約二万六〇〇〇坪を購入した人がいる。大阪市東区の精常院長別所彰善であった。彼は都会の密集生活をさけ、恵まれた自然のなかになるべく質素な家屋を建て、四季寒暑を通して開放生活を実行し、玄米を食し生水を飲み、山登りをいとわず、自ら働いて自給肥料で野菜を作りながら、協同生活ができるようにするのが精常生活であり、このような生活方法を実行しひろめるため、修養・感化・療病・興健の諸事業をおこなう財団法人山林精常園の建設を志し、精常園債を募集して資金を集めこの地を求めたのであった。
彼は、この土地を上・下に二分し、上部に山林精常園の夏期林間講習体験会用の講堂や宿舎・共同作業場・図書館・共同浴場などの諸施設や会員の精常生活用の貸住宅などを建て、下方約八〇〇〇坪はおよそ二〇〇坪に区画して分譲地とした。