第一次大戦後の不況期に起こった公共事業の企画ブームの一分野として、全国的に鉄道路線の計画が多かった。市域に関係するものをあげると、つぎのような計画である。大正九年の宝塚・伊丹間の宝丹鉄道、十年の大阪天神橋・伊丹・宝塚間の大阪宝塚鉄道、大阪豊崎町・尼崎・伊丹・宝塚間の大宝電気軌道、十一年の兵庫県三木・淡河(おうご)・有馬山口・宝塚・伊丹・大阪西野田間の阪播電気鉄道、宝塚・尼崎間の宝塚尼崎電気鉄道(尼宝鉄道)、十二年には宝塚・大阪天神橋間の有馬電気軌道、伊丹・宝塚間と塚口・尼崎・津門・西宮間の阪急電鉄の延長路線などであった。
これらの認可申請のうち、阪急電鉄の延長線と尼宝電鉄だけが認可された。前者については計画がかなり具体化していたようで、小浜村安倉に残る大正十四年二月「土地提供承諾書」によれば、安倉のむら氏神住吉神社前に停車場を設け、この付近の土地二万二〇六三坪を住宅経営地として阪急電鉄に提供することを、土地所有者が承諾している。土地売却価額に関して交渉委員はきまっていたが、その交渉はなかった。この計画は、塚口・尼崎・津門・西宮間が認可されなかったので実現しなかったからである。