西谷バス

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西谷村の人々は市街地に出るとき、三田もしくは池田への山道を歩いたが、阪鶴鉄道開通後は武田尾駅へ歩くことになった。しかし西谷村は南北に長く、駅への道程(みちのり)は短くなかった。これを短縮するため自動車への要望が強くなり、道路を拡幅した。村営で乗合自動車を運行することが検討されたが、経営・管理の面で問題があり、株式組織にすることになった。資本金を一万円とし発起人は各部落の代表者格の七名で、彼らは二〇〇株のうち四五株を引受け、一五五株は部落割当としたところ、一二六人の応募があった。持株数を部落別にすると表68のとおりである。大正十三年二月創立、社長は坊向太三郎、専務取締役は龍見嘉十郎で、社名を西谷自動車株式会社とした。
 

表68 西谷自動車部落別持株数

部  落  名持株数
上佐曽利(香合とも)23
下佐曽利10
長  谷(芝辻とも)11
大原野 東 部27
 〃  中 部37
 〃  西 部10
波  豆20
境  野24
玉  瀬(武田尾とも)23
不  明15
200

 
 最初「神戸の自動車屋で、シボレーの古い車を、一台二千円で二台買って来て、武田尾の坂道を、五人乗って試運転したが、エンジンが駄目で動かなくなって、とうとう一台を池へ棄てた。平地になれば、やっとのことで動いた。まだ自動車が珍らしい時分で、初夏の晩にライトを照らして緑の谷間を走ったときは、みんなが見物に来るほど気持ちの良いものであった」(田中詮徳著『あしあと』より)と。車はシボレーやフォードなどの乗用車三、四台を使用した。路線は上佐曽利分教場前から武田尾辻までで、そこから駅までは道路が狭く走れなかった。この間を五区に分け、料金は一区片道一〇銭とした。大正十四年五月には道路の改修がなり、武田尾駅前まで延長した。大正十四年四月から九月までの損益計算は、それ以前の繰越損金四〇五円八八銭、当期利益金一〇〇円三〇銭、後期へ繰越した損金三〇五円五八銭で、経営はようやく目鼻がついたことを示している。
 乗合バスの運行によって、西谷村の人々は阪神間にきわめて便利になったが、しかしまだ貨物自動車はなかったので、生産物の搬出や購入物品の運搬は、広根経由福知山線池田駅まで荷車あるいは荷牛車によらなければならなかった。
 当時の西谷村の物資運搬に使用された畜牛は耕作用でもあったのであるが、大正七年現在の頭数をみると、上佐曽利四一頭、下佐曽利一五頭、長谷三四頭、大原野八九頭、波豆二〇頭、境野二四頭、玉瀬二一頭、切畑四二頭、合計二八六頭であり、西谷村の農家平均二戸当り約〇・五頭すなわち約二戸に一頭の割であった。
 明治四十年の下佐曽利の頭数は一二頭であり、当時の耕作農家三三戸のうち自作一一戸・自小作一〇戸・小作一二戸であったから、畜牛を有する農家は自作農であったとみてよいが、大正七年には自小作農家数一〇戸のうち四戸までが牛を所有し、運搬に使用したとみてよいであろう。ただしその所有が真実の所有か、博労(ばくろう)からの預かり牛であったかは、今日ではもはや明らかにすることができない。
 バスが西谷村を走った時、沿道の家々や自転車の燈火はまだランプを使用していた。宝塚の温泉場には明治四十三年に、良元村の各部落にも大正四年までには電燈がついたが、西谷村の家々のランプが電燈に代わったのは大正十四年であった。上佐曽利は大正十二年七月二十三日羽束川電気株式会社との電燈架設契約書を作り、長谷は同年七月十五日むら集会で電燈架設につき協議し五八燈と決定、波豆は八月二日むらの臨時総会で架設を協議決定した。長谷の記録には十三年九月十三日に起工し、十四年四月七日成工と記されている。