「うるはしの思ひ出 モンパリ 我が巴里………」。この歌はレビュー「モン・パリ」開幕の歌であるとともに日本のレビュー時代開幕を告げる歌でもあった。大正三年四月一日に宝塚少女歌劇の幕を上げてから、一三年目を迎えた昭和二年九月、「モン・パリ」は爆発的人気をよんだのである。
軽快なジャズのリズムは、たちまちのうちに日本中にひろがった。育ての親小林一三は、「『モン・巴里』よ! 宝塚少女歌劇団のためには炎天に降った雨よりも……」と驚喜した。九月・十月、翌三年六月・七月と宝塚少女歌劇最初の長期公演記録をつくったのである。幕が上がって休みなく、一六場が連続して展開し二一〇人に及ぶ登場人員がつぎつぎに歌い踊り、フィナーレの場には舞台いっぱいに一五段の階段が現われ、全員がその上に下に踊りと歌と花吹雪のうちに幕という形式は、大劇場にして始めてできたのである。「モン・パリ」の成功は製作陣の励みとなり、宝塚においてレビューはこのあとつぎつぎと試みられ、世界的にも珍しい大劇場でのレビューとミュージカルへの歩みが始まったのである。
昭和二年十一月には日本ものレビュー「兜(かぶと)」、翌年一月には「イタリヤーナ」、四月には「春のをどり」、八月「ハレムの宮殿」などが続いた。昭和五年八月の「パリゼット」はタップダンスとシャンソンを大舞台で試み、またメイキャップの革命をおこない、素肌の美しさを出すため厚化粧から肌色化粧への転換を試みた。「パリゼット」で歌われた「宝塚讃歌」は、その昔小さな湯の街に生まれて知る人もなかった少女歌劇を、今では青いハカマとともに誰もが知るようになったことを歌詩とし、宝塚を「おおたからづか TAKARAZUKA」と繰り返し歌いあげたが、この歌は湯の街と少女歌劇とが結ばれている宝塚のイメージを全国に紹介した。宝塚の舞台と男装のおとめは、全国の少女のあこがれのまとであった。舞台いっぱいの大きな花籠につめられた花の精は、やがて一列にならび、軽快にはずみながら踊った。横長のプリズム照明に照らしだされたロケット・ダンスのこころよいリズムは、若い人々の胸をおどらせたのであった。
また、このレビューの一場面セーヌ河畔で、花売りのおばあさんと若い夫婦がともにうたう「すみれの花咲く頃 はじめて君を知りぬ君を思ひ………」という歌は、夢多き乙女(おとめ)の恋心をそそり、観客席と舞台との合唱に心をふるわせた少女も多かった。武庫川河畔に咲きそろった美しいすみれのタカラジェンヌが歌うこの歌は、「宝塚歌劇の歌」となり、菫(すみれ)の花は後に宝塚「市花」となった。
昭和六年の「セニョリータ」ではスペインを紹介し続いて「ミス上海」、八月公演の「ローズ・パリ」ではふたたびパリを舞台とし、タクシーでダンスへ行く大きく綺麗(きれい)なママと、破れ穴のある靴下をはき古い時計を持ち、いつもママの買物の勘定書の支払いをさせられテクシーで会社へ行く小さな声のパパとを対照的にうたった、「うちのパパとうちのママ」の歌は、当時の世相の一面をユーモラスに物語るもので、今もなお忘れえない人が多いことだろう。昭和八年夏の「花詩集」は、八つの花を主題として展開するコントの連続で、笑いと涙、ワルツ・タンゴ・ブルース、コーラスとバレエのモンタージュであり、レビューの超傑作と評された。
昭和二年以来のレビューに結集された宝塚歌劇の成果は、宝塚でこそその力をじゅうぶんに発揮できたが、他の場所では困難であった。それはレビューを自由に演ずる舞台がなかったからである。小林一三は東京に大劇場の建設を計画した。昭和九年一月一日、日比谷の東京宝塚劇場の緞帳が上がった。舞台では、「宝三番叟(さんばそう)」・オペレッタ「巴里のアパッシュ」・歌劇「紅梅殿」・レビュー「花詩集」が上演され、東京のヅカ・ファンも宝塚と同じように熱狂した。東京公演は歌劇団の意欲を高め作品の向上と舞台の進歩はテンポを早めた。翌十年には横浜・名古屋・京都にも宝塚劇場が建ち、各地の歌劇ファンを喜ばすことになった。
昭和九年三月、オペレット「アルルの女」、ついで「トウランドット姫」などが上演され、八月の「ヂャブ・ヂャブ・コント」は、温泉場の情緒をノン・ストップ三〇場で見せたが、この舞台で初めてマイクロフォンが使用された。宝塚のレビュー文化と関西のことばとが、ヅカ・ガールによって全国に伝播されていった。