北支軍慰問

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アメリカ公演中の十四年五月十二日、満蒙国境で満州・外蒙両国軍隊が衝突し、いわゆるノモンハン事件が起こった。七月四日アメリカ公演組が氷川丸で横浜に帰った四日の後、七月八日には国民徴用令が公布された。同二十六日には米国が日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。陸相板垣征四郎は日独伊三国同盟締結を主張した。時局は容易ならざる方向に進展していたのである。宝塚では北支皇軍慰問団を組織し、八月二十一日神戸港を出帆、青島(チンタオ)など一〇カ所を慰問し、九月二十四日帰宝した。
 翌十五年七月には「基本国策要綱」が閣議で決定し、九月には三国軍事同盟締結、十月大政翼賛会が創立され、十一月大日本産業報国会設立、十二月には経済新体制確立要綱が発表されるという状態で、日々時局は緊迫の度を加えた。宝塚でも七月三日大日本国防婦人会宝塚少女歌劇団分会が生まれ、九月二十七日には宝塚少女歌劇音楽奉仕隊を結成した。十月一日には少女歌劇が「宝塚歌劇」と改称し、二十五日には音楽奉仕隊が「宝塚唱舞奉仕隊」と改名して、各地を慰問した。