大劇場の閉鎖

349 ~ 349 / 620ページ
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争が始まった。十七年九月には満洲国建国一〇周年の親善使節として約六〇名が渡満し、十八年五月には約五〇名が満鮮公演をおこない、十九年にも満洲公演に出かけた。宝塚大劇場は十九年三月一日ついに閉鎖ときまり、海軍に徴用された。宝塚歌劇団と学校は、宝塚記念館へ移され宝塚歌劇道場と改称された。

写真180 歌劇場屋上の対空銃座跡


 宝塚歌劇三〇年の舞台はここに幕をおろしたのであるが、それを予見するように最初からの指導者であった久松一声は、昭和十八年七月天津乙女の手を握りながら永眠し、またレビューの幕を開いた「モン・パリ」の作者岸田辰弥は、大劇場の閉鎖と運命を共にするように、十九年十月その多彩な生涯の幕を閉じた。