昭和八年、宝塚外園にダークステージを建て、歌劇の生徒によるトーキー映画を試作したことがあったが、十三年には前述のキノドラマ「軍国女学生」の劇中に映写する映画を製作した。これを機会に八月、撮影所を大運動場西北隅に建て、映画「軍国女学生」を完成した。つづいて「山と少女」「雪割草」「女学生と兵隊」「瞼(まぶた)の戦場」などを製作したが、十六年一月には閉鎖することになった。
また十三年十二月十五日、かねて大衆の演劇を企図し、一芸一能の人を広く求めていたが、多彩な四八名の芸能人の参加を得て、この日「宝塚ショウ」の結成式を挙行した。翌年一月中劇場で旗挙げ公演をおこない、三月、八月の公演をおこなったが、十五年五月の中劇場公演を最後に、株式会社梅田劇場の所属となった(以上は主として『宝塚歌劇四十年史』および『同五十年史』によった)。