宝塚の名所

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 (12)能勢の妙見伏し拝み
   銭屋五兵衛の塚近く
  南に開く山の影
   新に植えし花屋敷
 (13)木部平井や山本
   四季もゝくさの花畑
  長閑に響く夕暮の
   鐘は中山観世音
 (14)紫雲棚引く山の端に
   梅の香の米谷や
  清荒神かみさびて
   武庫川千鳥走りゆく
 (15)早き電車の終点に
   集り来る都人
  土産も重き宝塚
   楽み多きゆきき哉
 これは箕面電車唱歌(一二節以下)であって、鉄道唱歌にならって唱(うた)うのであるが、大正六年以前の作と思われる。またこのころ山本永暉が「宝塚八景」として丁香飛瀑・塩寺晨鐘・荒神秋葉などを描いて、風景を紹介した絵はがきを出している。大正も終わりごろから名所も変わってきた。阪急電鉄の沿線案内によれば、宝梅園・米谷・八阪の梅林、売布の皐月(さつき)、山本の牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)・菊・いちご・松茸狩、それに最明寺滝や仁川・惣合川の峡谷などをあげている。このうちとくに秋の松茸狩は市域を囲む山々の至るところでおこなわれ、長尾山のふもと清荒神や中山寺付近には季節料亭が立ちはじめ、なかには温泉として売出したところもあって、阪神間の遊客を誘致していた。

写真185 「丁香飛瀑」の図 山本永暉筆
(福井文子提供)


 大正元年の「山容水態」と題する一書には、「夏近きを覚ゆる頃、木部・平井・山本のあたり、一面の富貴草、濶然(かつぜん)と花開く、紺・白・紫、紅の大輪、色を競ふて野に咲き満てる状、濃艶他に其比を求むべからず」とあるが、牡丹のみならず、この地山本の園芸はますます発展した。
 西国二四番観音霊場中山寺は古くより安産・子授けの観音として婦人の信仰者が多く(『第一巻』四一三ページ参照)、三三所観音が星にのって中山寺に参集するといわれる旧七月九日夜の中山寺星下り大会式には、箕面電車は終夜運転して、一晩に数万人を運んでいた。また四月十七日から三日間おこなわれる無縁経法会も多数の参詣者があった。

写真186 中山寺星下り大会式


 清荒神は、水商売を営む人々の信仰が厚くなり、昭和期に入って信者がいちじるしく増加し、毎月二十七、八日両日の参詣人は数万を数え、初荒神および納荒神は、およそ一・五キロメートルの参道に露店が軒を並べ、人々の列が絶えることのない有様となった。

写真187 三宝荒神春季大祭


 「名月や箕面公園宝塚」といわれた月見はやがて衰え、それに代わって八月十五、六日の宝塚花火大会が盛んになった。新・旧温泉の間を流れる武庫川原に仕掛けられた花火は清流に映えて、訪れた客を魅了したが、しだいに戦時色の濃いものになっていった。
 日本一みのおの桜といわれた大正期から、宝塚が有馬とともに桜の名所となる昭和初期には、宝塚への見物客が急増してきた。
 仁川峡谷や紅葉谷(塩谷川)は、家族づれのハイキングに好適の地としてにぎわい、東六甲縦走路は健脚向けのコースとして開かれた。昭和九年には宝塚・六甲ドライブウェイが完成し、両地を回遊することができるようになったが、十三年の大水害で一時中断した。十八年には西六甲縦走ドライブウェイができあがり、宝塚からの六甲山縦走路が貫通した。宝塚から神戸へ、六甲山を走りぬける快適なドライブを楽しめるようになった。