宝塚文化

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宝塚文化は、これを発生的にみるならば、家族連れのレクリエーション施設としての新温泉と、その余興の西洋音楽および少女歌劇を嚆矢(こうし)とする。それらは電鉄資本によって育成され、大衆に支持されたものであった。
 日露戦後、とりわけ第一次世界大戦を契機とする日本資本主義の発展は、工業生産や貿易額を四、五倍に伸ばし、大量の労働者と知識階層を創出した。阪神間には工業地帯と、産業ブルジョアジーおよび中間層の住宅地が形成されていった。そこに育った文化は、港神戸から輸入されたハイカラそのものではなく、阪神間の土壌で育てられたものであり、その一つが宝塚少女歌劇であった。
 伝統的な歌舞伎や三味線と俗謡などに親しんだ当時の大衆に、原語で演じるオペラやシェクスピアの翻訳劇が受け入れられるはずはなかったが、小学校で洋楽を習った子どもに日本語の歌詞と洋楽で演じるお伽(とぎ)歌劇は親しみをもたれた。
 宝塚は、核家族化する各階層の家族ぐるみのレクリエーションの場となったが、そういった家族の増加と子どもの成長とともに、宝塚の西洋音楽と伝統的な日本舞踊や歌舞伎などとの融合も進み、ハイティーンを対象とする宝塚情緒の日本的歌劇あるいはオペレッタなどが定着した。昭和初期には大劇場におけるレビューが創り出された。宝塚文化は、日本の伝統的舞踊や演劇などが、輸入された洋楽と舞台形式により変容した、大正・昭和初期の和洋折衷大衆芸術の一形態であったということができよう。