明治後期以来の宝塚の変貌(へんぼう)は、交通機関の発達と、温泉やレジャー施設の設置、河川の改修、住宅地の開発によるのであるが、変貌の速度と規模とを象徴的に示すものは人口の変化である。明治三十八年十二月の人口は、市域総計約一万四〇〇〇人、
良元村 三一六〇人
小浜村 三五九六人
長尾村 四一五八人
西谷村 三一六八人(明治三十一年四月)
で、明治四十年までに旧温泉のある良元村は九四人(三%)の増加を示したが、小浜村は一三名の減少、西谷村も減少し、長尾村は増加はしたが、四八人(一・二%)の増加にすぎなかった。明治四十年以降の人口増減の動向を、五年間(ただし大正六年から九年までは三年間)ごとの増減率で示した図14によってみることにしよう。
明治四十年から大正元年の五年間は、西谷村の場合六二人 二%の減、長尾村は三四一人 八・一%の増加であったが、良元村では四一〇人 一二・六%の増加、この間に新温泉やパラダイスができた小浜村は七四四人 二〇・八%と激増を示した。大正六年までのつぎの五年間は、長尾村が四・四%増にとどまったのに対し、西谷村三三〇人 一〇・七%、良元村四六六人 一二・七%、小浜村七七九人 一八・〇%の増加をみた。ところが第一回国勢調査がおこなわれた大正九年までの三年間は、西谷・長尾両村の約三%減少に対して、良元・小浜両村はいずれも増加した。増加率は良元村の一二・一%が小浜村の八%を越えた。大正十四年までの五年間は四カ村とも増加を示し、西谷村四・七%、長尾村六・一%、とりわけ良元・小浜両村はいちじるしく増加し、それぞれ二二・二% 二五・七%の伸び率を示した。
大正十四年から昭和五年までの五年間は、良元村が一五八三人 二七・九%増の伸び率で最も高く、この趨勢は昭和十五年まで続いた。小浜村は一三九四人 二〇・一%の増加、長尾村二二九人 四・七%、西谷村三四八人 一〇・一%増であった。昭和十年までの五年間は良元村二三・二%、小浜村一八・八%、長尾村一四・一%、西谷村〇・五%のそれぞれ増加、続く昭和十五年までの増加は良元村において三三四四人で、これまでの最高の増加率三七・四%を示し、小浜村の増加数と増加率とはともに落ちて一五五二人 一五・七%にとどまった。長尾村と西谷村とはそれぞれ六・三%、八・〇%の増に過ぎなかった。
右の人口増減の推移は、明治の末年から大正年間を経て太平洋戦争開始までの宝塚市域の急速な変化を端的に物語っている。特徴的な点をあげると、人口増加率においては小浜村と良元村とが、長尾・西谷両村とは一線を画しており、また人口増の先駈けは明治三十年代の良元村であったが、明治末年から大正十四年までの宝塚第一期高度成長期をリードしたのは小浜村であり、その後は良元村が優位を示した。特に昭和十年以降の三七・四%は、それまでになかった高率であった。各村の人口の推移は表69に示した。
表69 宝塚市域各村の人口 (明治40年~昭和15年)
年 次 | 良元村 | 小浜村 | 長尾村 | 西谷村 | 合 計 | |||||
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実数 | 指数 | 実数 | 指数 | 実数 | 指数 | 実数 | 指数 | 実数 | 指数 | |
人 | 人 | 人 | 人 | 人 | ||||||
明治40年 | 3,263 | 100 | 3,583 | 100 | 4,206 | 100 | 3,135 | 100 | 14,187 | 100 |
大正1 | 3,673 | 113 | 4,327 | 121 | 4,547 | 108 | 3,073 | 98 | 15,620 | 110 |
6 | 4,139 | 127 | 5,106 | 143 | 4,746 | 113 | 3,403 | 109 | 17,394 | 123 |
9 | 4,640 | 142 | 5,513 | 154 | 4,591 | 109 | 3,300 | 105 | 18,044 | 127 |
14 | 5,670 | 174 | 6,930 | 193 | 4,869 | 116 | 3,454 | 110 | 20,923 | 147 |
昭和5 | 7,233 | 222 | 8,324 | 232 | 5,098 | 121 | 3,802 | 121 | 24,495 | 173 |
10 | 8,934 | 274 | 9,887 | 276 | 5,817 | 138 | 3,820 | 122 | 28,558 | 201 |
15 | 12,278 | 376 | 11,439 | 319 | 6,185 | 147 | 4,125 | 132 | 34,027 | 240 |
『兵庫県統計書』による