風俗営業と街の状況

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昭和二年の「モン・パリ」によって宝塚少女歌劇はレビュー時代にはいり、第一期黄金時代をきずくことになったが、そのころの宝塚の街の様子を農村部と比較してみることにしよう。宝塚の全地域は三つの警察署の管轄下にあった。昭和四年の定員総数二〇名の宝塚警察署は、良元村内の宝塚ホテル西側にあり、派出所を小浜村の栄町に、また駐在所を小林・小浜・生瀬などにおき、良元村・小浜村全域と西谷村のうち玉瀬の譲葉(ゆずりは)および切畑の桜小場ならびに塩瀬村を管轄区域としていた。定員二八名の伊丹警察署は、川西派出所山本駐在所をおき長尾村を、同寺畑駐在所は西谷村の一部を、また荒牧駐在所は長尾村の他の部分を管轄区域とした。定員一二名の広根警察署は東谷村・中谷村・多田村・六瀬村・西谷村の大部分を管轄区域とし西谷村には大原野駐在所があった。警察は管内の取締営業につき調査しているが宝塚警察署の管轄内(世帯数三七八五、人口一万七四四六人、これをA区域とよぶ)の営業数と広根警察署の管内(世帯数三二一八、人口一万五八〇五人、B区域)すなわち川辺郡北部通称奥川辺五カ村内の諸営業数とを比較してみよう(表72参照)。平野部とりわけ温泉・歌劇場を中心とする地域と北部山間の農村の状況の相違を知ることができる。

写真189 宝塚警察署 湯本にあった当時
『市勢要覧』より


 

表72 宝塚・広根警察署管内営業種別および数

営業種別昭和4年昭和16年営業種別昭和4年昭和16年
A区域B区域A区域B区域A区域B区域A区域B区域
質   屋7936湯 屋 業506
古 物 商731277563鉱温泉浴場304
代 書 人7766芸妓共同事務所101
印 判 業30芸妓 置 屋13011
牛乳搾取業3343芸    妓 98人  0人106
同 販売業10343雇 仲 居245人  0人
散 髪 業22152510酌 婦 仲 居 0人 28人5632
女 髪 結 業2717133遊 芸 師 匠 1人  0人3
散髪業雇人25人 2人173遊 技 場30
女髪結業雇人25人 0人4青物市場011
貸 蒲 団 業20古物市場02
清涼飲料水製造業3231其 他 市 場20
   同 販売業53210850畜    場2121
凍氷販売業4231劇    場302
獣肉販売業2266820寄    席101
牛 馬 商17311621活助写真常設館101
製 薬 業02人力車営業45
薬 種 商9192人力車輓子 17人5人
売 薬 商28213438人力車車体175
鍼灸術営業95119荷    車822895
按摩按腹吸玉業138102荷 馬 車77698
旅 人 宿58264521荷 牛 車66261
下 宿 屋225自 転 車1,1281,459
木 賃 宿4422自家乗用自動車10
料 理 屋64135318自家用貨物自動車10
カ フ エ ー7013営業用貨物自動車20
飲 食 店859910641乗合自動車営業23
紹 介 業20乗合自動車数1115
地家管理周旋業1902719貸自動車営業03
運 送 業4021貸自動車数07
陸 仲 仕4071サイドカー01

『兵庫県統計書』による
〔注〕 A区城は宝塚警察署管内 B区城は広根警察署管内


 
 A区域にはつぎのような店がたち並んでいた。すなわち印判業・牛乳販売業・散髪業・女髪結業・貸蒲団業・清涼飲料水販売業・凍氷販売業・薬種商・売薬商・鍼灸(しんきゅう)術営業・按摩按腹吸玉(あんまあんぷくすいだま)業・旅人宿・料理屋・カフェー・飲食店・紹介業・土地家屋管理周旋業・運送業・湯屋業・鉱温泉浴場・芸妓共同事務所・芸妓置屋・遊技場・市場・劇場・寄席・活動写真常設館・人力車立場などがあり、散髪業雇人・女髪結業雇人、とりわけ芸妓・雇仲居が多数働いていた。街を通る運搬車は、荷牛車よりも荷馬車が多く、自転車も多数走っていたが、自動車はまだ珍しかった。
 地区別に街の姿をえがいてみよう。武庫川右岸沿いの旧温泉地区と左岸沿いの新温泉地区とは市街地を形成していた。宝来橋付近から川に沿って阪急電鉄宝塚南口駅に至る間の旧温泉地区には、温泉浴場と旅館・料理屋・芸妓置屋・女髪結業・人力車立場・宝塚警察署・ホテルおよび各種の商店がたち並び、多数の芸妓や雇仲居がいた。新温泉地区には、福知山線と阪急電鉄の宝塚駅があり、その付近には、銀行や各種商店・みやげ物店・旅館・カフェーなどが軒を接するようになり、近在の町や村の青年たちの憩いの場ともなった。花のみちの両側には新温泉と少女歌劇場・ルナパーク・活動写真館などがたち並び、多数の浴客・遊覧客が往来していた。みどりの袴を短くはいて白足袋の上を僅かにのぞかせた宝塚音楽歌劇学校の生徒が、宝塚駅から花のみちを通り、あるいはまた宝塚南口から迎宝橋を渡り学校や歌劇場へ向かう姿は、宝塚独特の風物であった。武庫川両岸の市街地は、右岸は良元村、左岸は小浜村に属していたが、両地区は総称して宝塚とよばれ、不可分の観光遊覧地となっていた。しかし両地区を自動車で往復するには、下流は甲武橋(西宮市)まで、上流は生瀬橋まで迂回(うかい)しなければならなかった。宝塚大橋が開通したのは昭和七年であった。
 市街地や住宅地以外の大部分は、長尾村・西谷村と同様に農村であって、古くからの居住者はそのまま従来の生業を営んでいた。小浜の字市場を中心とする区域はかつての宿場町であり、付近の農村地帯の生活必需品の供給地でもあった。しかし明治末年にはその役割りを終わって衰微し、それに代わって宝塚付近の新市街地がまちの機能をはたすことになった。小浜郵便局は明治七年に開設されていたが、明治四十一年には湯本に宝塚郵便局が設置され、四十三年から小浜村もその郵便物集配区域となったことは、それを示す象徴的なできごとであった。昭和初年の小浜は市街地の形態こそ残っていたが、「まち」としての機能はまったく喪失していた。