表72 宝塚・広根警察署管内営業種別および数
営業種別 | 昭和4年 | 昭和16年 | 営業種別 | 昭和4年 | 昭和16年 | ||||
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A区域 | B区域 | A区域 | B区域 | A区域 | B区域 | A区域 | B区域 | ||
質 屋 | 7 | 9 | 3 | 6 | 湯 屋 業 | 5 | 0 | 6 | - |
古 物 商 | 73 | 127 | 75 | 63 | 鉱温泉浴場 | 3 | 0 | 4 | - |
代 書 人 | 7 | 7 | 6 | 6 | 芸妓共同事務所 | 1 | 0 | 1 | - |
印 判 業 | 3 | 0 | - | - | 芸妓 置 屋 | 13 | 0 | 11 | - |
牛乳搾取業 | 3 | 3 | 4 | 3 | 芸 妓 | 98人 | 0人 | 106 | - |
同 販売業 | 10 | 3 | 4 | 3 | 雇 仲 居 | 245人 | 0人 | - | - |
散 髪 業 | 22 | 15 | 25 | 10 | 酌 婦 仲 居 | 0人 | 28人 | 56 | 32 |
女 髪 結 業 | 27 | 17 | 13 | 3 | 遊 芸 師 匠 | 1人 | 0人 | 3 | - |
散髪業雇人 | 25人 | 2人 | 17 | 3 | 遊 技 場 | 3 | 0 | ||
女髪結業雇人 | 25人 | 0人 | 4 | - | 青物市場 | 0 | 1 | 1 | - |
貸 蒲 団 業 | 2 | 0 | - | - | 古物市場 | 0 | 2 | - | - |
清涼飲料水製造業 | 3 | 2 | 3 | 1 | 其 他 市 場 | 2 | 0 | ||
同 販売業 | 53 | 2 | 108 | 50 | 畜 場 | 21 | 2 | - | 1 |
凍氷販売業 | 4 | 2 | 3 | 1 | 劇 場 | 3 | 0 | 2 | - |
獣肉販売業 | 22 | 66 | 8 | 20 | 寄 席 | 1 | 0 | 1 | - |
牛 馬 商 | 17 | 31 | 16 | 21 | 活助写真常設館 | 1 | 0 | 1 | - |
製 薬 業 | 0 | 2 | - | - | 人力車営業 | 4 | 5 | ||
薬 種 商 | 9 | 1 | 9 | 2 | 人力車輓子 | 17人 | 5人 | ||
売 薬 商 | 28 | 21 | 34 | 38 | 人力車車体 | 17 | 5 | ||
鍼灸術営業 | 9 | 5 | 11 | 9 | 荷 車 | 822 | 895 | ||
按摩按腹吸玉業 | 13 | 8 | 10 | 2 | 荷 馬 車 | 776 | 98 | ||
旅 人 宿 | 58 | 26 | 45 | 21 | 荷 牛 車 | 66 | 261 | ||
下 宿 屋 | 2 | 2 | 5 | - | 自 転 車 | 1,128 | 1,459 | ||
木 賃 宿 | 4 | 4 | 2 | 2 | 自家乗用自動車 | 1 | 0 | ||
料 理 屋 | 64 | 13 | 53 | 18 | 自家用貨物自動車 | 1 | 0 | ||
カ フ エ ー | 7 | 0 | 13 | - | 営業用貨物自動車 | 2 | 0 | ||
飲 食 店 | 85 | 99 | 106 | 41 | 乗合自動車営業 | 2 | 3 | ||
紹 介 業 | 2 | 0 | - | - | 乗合自動車数 | 11 | 15 | ||
地家管理周旋業 | 19 | 0 | 27 | 19 | 貸自動車営業 | 0 | 3 | ||
運 送 業 | 4 | 0 | 2 | 1 | 貸自動車数 | 0 | 7 | ||
陸 仲 仕 | 4 | 0 | 7 | 1 | サイドカー | 0 | 1 |
『兵庫県統計書』による
〔注〕 A区城は宝塚警察署管内 B区城は広根警察署管内
A区域にはつぎのような店がたち並んでいた。すなわち印判業・牛乳販売業・散髪業・女髪結業・貸蒲団業・清涼飲料水販売業・凍氷販売業・薬種商・売薬商・鍼灸(しんきゅう)術営業・按摩按腹吸玉(あんまあんぷくすいだま)業・旅人宿・料理屋・カフェー・飲食店・紹介業・土地家屋管理周旋業・運送業・湯屋業・鉱温泉浴場・芸妓共同事務所・芸妓置屋・遊技場・市場・劇場・寄席・活動写真常設館・人力車立場などがあり、散髪業雇人・女髪結業雇人、とりわけ芸妓・雇仲居が多数働いていた。街を通る運搬車は、荷牛車よりも荷馬車が多く、自転車も多数走っていたが、自動車はまだ珍しかった。
地区別に街の姿をえがいてみよう。武庫川右岸沿いの旧温泉地区と左岸沿いの新温泉地区とは市街地を形成していた。宝来橋付近から川に沿って阪急電鉄宝塚南口駅に至る間の旧温泉地区には、温泉浴場と旅館・料理屋・芸妓置屋・女髪結業・人力車立場・宝塚警察署・ホテルおよび各種の商店がたち並び、多数の芸妓や雇仲居がいた。新温泉地区には、福知山線と阪急電鉄の宝塚駅があり、その付近には、銀行や各種商店・みやげ物店・旅館・カフェーなどが軒を接するようになり、近在の町や村の青年たちの憩いの場ともなった。花のみちの両側には新温泉と少女歌劇場・ルナパーク・活動写真館などがたち並び、多数の浴客・遊覧客が往来していた。みどりの袴を短くはいて白足袋の上を僅かにのぞかせた宝塚音楽歌劇学校の生徒が、宝塚駅から花のみちを通り、あるいはまた宝塚南口から迎宝橋を渡り学校や歌劇場へ向かう姿は、宝塚独特の風物であった。武庫川両岸の市街地は、右岸は良元村、左岸は小浜村に属していたが、両地区は総称して宝塚とよばれ、不可分の観光遊覧地となっていた。しかし両地区を自動車で往復するには、下流は甲武橋(西宮市)まで、上流は生瀬橋まで迂回(うかい)しなければならなかった。宝塚大橋が開通したのは昭和七年であった。
市街地や住宅地以外の大部分は、長尾村・西谷村と同様に農村であって、古くからの居住者はそのまま従来の生業を営んでいた。小浜の字市場を中心とする区域はかつての宿場町であり、付近の農村地帯の生活必需品の供給地でもあった。しかし明治末年にはその役割りを終わって衰微し、それに代わって宝塚付近の新市街地がまちの機能をはたすことになった。小浜郵便局は明治七年に開設されていたが、明治四十一年には湯本に宝塚郵便局が設置され、四十三年から小浜村もその郵便物集配区域となったことは、それを示す象徴的なできごとであった。昭和初年の小浜は市街地の形態こそ残っていたが、「まち」としての機能はまったく喪失していた。