街の生活

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新市街地の人々(商店)の生活はもとよりその営業収入を基礎としていたが、それはまた旧温泉や新温泉の来客数の大きさに左右された。
 旧温泉の浴客数は大正十四年には一六万人にすぎなかったが、昭和二年には二八万六〇〇〇人を数え、翌三年には二二万人に減少し、四年にはまた二六万人に回復した。その後二〇万人台を維持し十一年には二九万八〇〇〇人となった。旅館止宿者(宝塚警察署管内総数)は昭和四年に三万二〇〇〇人、同八年に四万二〇〇〇人、同十一年五万二〇〇〇人、同十六年には五万八〇〇〇人を記録した。芸妓置屋と芸妓数は昭和四年に一三軒九八人であったが、翌五年には一一軒八〇人に減少した。同六年から芸妓数は八八人、七年は八九人、八年には一〇三人と増加し、十三年には一三六人に達した。年間の芸妓一人平均売揚高は昭和四年一六三五円で、以降一五〇一円、一二八五円、一三三五円、一四一六円と続き、同十三年には一八一一円となった。新温泉の入場者数は大正十三年に一〇〇万人を突破していたが昭和四年には一二三万人、同十五年一七八万人、同十七年にはそれまでの最高一八八万人に達した。活動写真の年間観客数は、昭和四年に一六万人、五年は二二万人を越えたが、その後はほぼ一〇万人前後にとどまった。

写真190 宝来橋からみた旧温泉 大正期 (福井文子提供)


 現在は人々の生活にとって新聞の購読は欠くことのできないものであると考えられるが、良元村の大正九年の調べでは、戸数六九五戸、新聞購読部数は二八七で、約二・四軒に一部の割合であった。地区別購読部数は宝塚一八一部、伊孑志二六部、小林五一部、東蔵人一三部、西蔵人八部、鹿塩八部で、農村部の購読者は少なかった。読まれた新聞は大阪毎日新聞が最も多く、大阪朝日新聞がこれにつぎ、大阪時事・東京日日・関西・大阪朝報・国民新聞・神戸又新(ゆうしん)を購読するものが宝塚地区に僅かにあった。
 明治四十年九月長尾村荻野に編集所をもつ「縦横新報」が発行されたが、これの発行所は池田町にあった。宝塚市域に発行所を有する新聞もあった。四十四年八月に「たから新聞」(本社宝塚、神戸・大阪に支局、社長坦和三郎)が、週刊紙として創刊された。大正七年七月に長尾村中山寺字谷に発行所を有する月三回の「伊丹新聞」が発行されたが、同十四年には小浜村に発行所のある「宝塚新聞」、川面から「阪神報知新聞」、長尾村中山から「阪神中央新聞」がそれぞれ月三回、同一五年二月小浜村から「阪神毎日新聞」が月三回、同年三月同村から「児童之生命」月二回、昭和二年八月には川面から「若越県友」月一回、同三年三月同じく川面から週刊の「宝塚新聞」、月一回の「愛と美」が創刊された。同五年八月には「宝塚タイムス」、同六月に「オールカー新聞」がそれぞれ月一回出た。

写真191 宝塚新聞 昭和3年5月 (福井文子所蔵)


 病院は、明治三十六年三月に創設された私立宝塚病院(院長春日育造・副院長春日惟精)があり、転地療養に適していたという。昭和四年現在病床数八・医師二名・看護婦二名・薬剤師一名の規模で、その外来患者数は昭和二年一〇四六人、同四年八七七人であり、入院者実人員数は二三人、同四年一一人であった。各村の医師等の数は表73のとおりで、病気の種類は表74に示した。良元村のトラホーム・脚気・結核、小浜村の脚気・結核などが注目される。昭和四年の結核死亡者の総死亡者に占める割合は、武庫郡で一三・四四%、川辺郡では一一・四五%であり、また一般に乳幼児の満五歳までの死亡が多く、兵庫県全体では総死亡者のうち三七・〇五%を占めたが、宝塚市域の四カ村もその例外ではなかったであろう。
 

表73 昭和4年・16年市域各村別医師等人数

良元村小浜村長尾村西谷村
医  師6712
(9)(13)(2)(6)
歯科医師211
薬剤師16
(8)(6)(2)(1)
産  婆8834
(10)(16)(2)(3)
看護婦A区域B区域
23
(15)(2)

〔注〕( ) 内数字は昭和16年、A区域は宝塚
警察署管内 B区域は広根警察署管内


 

表74 昭和4年各村別医師施治患者数

病  名良元村小浜村西谷村
医師施治患者   人   人   人
総     数1,8341,557416
法定伝染病271
結     核26511
   癌3162
   癩1
トラホーム335226
流行性感冒2710
梅     毒1181
淋     病20114
脚     気511781
精  神  病121
其  の  他1,3841,235389
歯科医師施治患者1,142908
総     数

『兵庫県統計書』による
〔注〕この年長尾村の記載かない


 
 死亡者の埋葬については武庫郡も川辺郡も火葬が多くなっていたが、なお土葬がそれぞれ一二・八%、二二・一%であった。村別にみると良元村では四・九%、小浜村四〇・九%、長尾村三九・五%、西谷村七四・〇%が土葬であった。埋葬墓地と石碑を建てる第二次墓地とを別にする両墓制が、西谷村の波豆や大原野では現在でもみられる。
 大正五年七月良元村宝塚の一六三戸に簡易水道がひかれたことはまえにもふれたが、同十三年二月には工費一万六〇〇円で西蔵人七〇戸にも給水が始まった。
 このような人々の生活のなかで租税の負担はどのようであったか。昭和三年についてみると、表75のとおりであって、国税・県税・市町村税およびその合計額の各村一戸当りと一人当り平均負担額がわかる。所得についてみよう。表は第三種所得税納付者の所得であるが、一人当り(この場合は一戸当りとみてよい)約二五〇〇円から三、四〇〇〇円であり、それに対する平均一人当り所得税額は約一〇〇~一九〇円である。しかし各村について納税額別にみると、三〇円以下の第三種所得税負担者が良元村では五一・二%、小浜村で五七・二%、長尾村八一・六%、西谷村五〇・〇%で過半数を占め、一〇〇円以下の負担者合計は、それぞれ七三・五%、七七・六%、九四・三%、七一・三%に達する。しかも第三種所得税を負担する者は各村総戸数のそれぞれ一二・九%、一四・九%、九・九%、一二・〇%にすぎないのであるから、村の大多数の家々の所得額はきわめて低いものであった。なお西谷村については、その村域である切畑長尾山地区に、雲雀が丘や花屋敷とよばれる富裕階級の住宅地があることを考慮してみる必要がある。
 

表75 昭和3年市域各村租税負担額

租  税良元村小浜村長尾村西谷村
    円   円   円   円
総     額105,770147,11687,77863,612
直 接 国 税24,72041,63231,62220,580
県     税41,97252,13926,82816,816
市 町 村 税39,07853,34529,32826,216
現住一戸に付
平均負担額
総     額93.85105.7699.6396.67
直 接 国 税21.9329.9335.8931.28
県     税37.2437.4830.4525.56
市 町 村 税34.6738.3533.2939.84
現住一人に付
平均負担額
総     額17.8121.7317.0518.03
直 接 国 税4.166.156.145.83
県     税7.077.705.214.77
市 町 村 税6.587.885.707.43
    人    人    人    人
第三種所得税人     員1502248780
    円    円    円    円
所 得 金 額444,165732,407222,027276,379
税     額16,23437,03016,54213,597
一人当り所得金額2,9613,2692,5523,454
一人当り税額108165190169

『兵庫県統計書』による