長尾村の果樹苗生産についてみると、その戸数は昭和三年六八戸、四年六六戸、五年九一戸、六年一三二戸、七年一五一戸、八年一二六戸、九年一六五戸、十年一八七戸と増加した。一戸当り生産額は昭和三年に一三二円、四年二〇九円、五年一四七円、六年二〇三円、七年一一〇円、八年八五円、九年八八円、十年は七〇円であった。また観賞植物生産では、昭和三年三三四戸、四年三五〇戸、五年四一五戸、六年四九三戸、七年四八四戸、八年五〇三戸、九年五〇五戸、十年五一九戸と増加し、一戸当り生産額はそれぞれ四三八円、三四九円、四四一円、六三五円、五五七円、六四二円、七〇〇円、八三一円と増加した。
長尾村の花卉園芸の発展については、第二章ですでに述べたが、その後昭和二年三月になって、県の苗木取締規則の制定とともに山本・丸橋・口谷・上中筋・中筋・野里、鴻池・東野・新田中野(以上伊丹市)・加茂(川西市)といま一カ所(米谷か)の一一カ所に燻蒸(くんじょう)室を設け、苗木の燻蒸消毒検査と病虫害の防除にあたり、組合員の範囲も長尾村を中心として小浜村、稲野村(伊丹市)・川西町・伊丹町の五カ町村に及んだ。組合事務所は長尾村役場内におき、山本・東野・米谷に出張所をおいた。この年にはまた、良元村に県立農事試験場園芸試作場が設置され、園芸作物の試植と指導にあたった。このころの組合員数七四五人、栽培面積は約五五〇町歩、年間の生産量は観賞植物約五〇〇万本、果樹苗約四〇〇万本、山林用苗木約二〇〇万本と称され、花卉盆栽などの生産も盛んであり、阪急電鉄の大阪梅田駅と神戸の上筒井駅に花の売店が設けられたりもした。同電鉄会社により宝塚植物園が開園したのもこの年のことであった。
昭和三年以降の長尾村の果樹苗および観賞植物生産農家の増大は前述のとおりであるが、長尾村を中心とする地域は、このような伝統的基盤の上に立って昭和初期の農村不況を乗りきった。昭和八年(一九三三)四月苗木検査は県直営でおこなわれることになり、昭和十年には川辺郡園芸組合、兵庫県花卉園芸組合および兵庫県園芸組合が発展的に解消し、兵庫県園芸会がつくられた。昭和十七年には近畿二府六県の業界が関西植物輸出協会を設立し、山本が花卉園芸産物の輸出を統括する地位に立った。戦時体制の強化とともに植木や種苗生産の畑地は食糧増産のため主食作物に切りかえられ、園芸生産も組合の活動もまったく休業状態となった。