上佐曽利の花卉園芸

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農村不況から花卉園芸によって立直ったいま一つの注目すべき村は西谷村である。同村の観賞植物生産農家戸数は昭和六年の二戸から、同七年八戸、八年二四戸、九年二八戸、十年四二戸、十一年八一戸へと急速に増加している。これらの生産物のうち特に注目すべきは切花・宿根草花・球根草花であり、それらの産額を合計すると、昭和六年一八五円(この金額を一・〇〇とすると)、七年一四五六円(七・八七)、八年一九七三円(一〇・六六)、九年二九六〇円(一六・〇〇)、十年七〇四八円(三八・一〇)、十一年一万二六七二円(六八・五〇)、十二年一万九六九五円(一〇六・四六)、すなわち六年間で一〇六倍余という驚くべき伸びを示した。この数字を実態についてみると、それは西谷村全体のものではなく、その北端の上佐曽利のものであった(巻頭カラー写真2参照)。

写真194 上佐曽利花卉園芸の頌徳碑


 上佐曽利は明治四十二年、時の区長田中稔の発起で東仲覚太郎を書記役として産業組合法による上佐曽利信用購買販売組合を設立し、事務所を田中芳松宅において活動を始めた。上佐曽利は池田へ五里、三田へ三里、当時は自転車やトラック・バスもなく、物の売買には荷車をひいて夜出発し、翌日の夜帰るという不便なところであったので、組合の最初の仕事は正月用品の販売であった。明治四十五年には事務所を建て常勤者を雇い開店した。当時の生産は米・麦・木炭であり、個人的に孟宗筍(たけのこ)・山芋・西瓜等が作られていたが、共同販売は米だけでその他は指導などもなかった。昭和二年ごろに部落農会が設立され、米・麦・製炭以外に副業を奨励するため養豚・養鶏・蔬菜栽培・採種・肥牛・園芸等の部を設け、研究指導にあたらせることにした。昭和四年には若茄子(なす)の統一栽培などをしていたが、牛馬に積んで池田まで持って行くのが二日がかりの仕事であり、市場では値をたたかれ、時には駄賃にもならないという状態であったので、花の栽培を思いついたということである。
 昭和五年に有馬郡有野村(神戸市)からダリアの球根を購入し、五、六人で試作をした。最初は蔬菜の上に切花を積み、豊中・岡町(豊中市)方面まで出かけて小売の花屋に買ってもらうということもあった。昭和六年にはアイリス・チューリップ・岩戸百合を一三名の者が一反歩ずつ割当栽培をし、同七年にはダリア・グラジオラス・アイリスなどの切花を阪神方面へ出荷し、生産球は高平村(三田市)・六瀬村(猪名川町)方面に販売した。昭和九年からは仕切代金いっさいを信用購買販売組合が扱うことになった。十年三月には三六名の同志で佐曽利園芸組合を設立し、花卉の共同出荷と販売先の調整にあたり、当時の満州へ球根を販売するまでになった。同十一年には栽培農家が五四戸になり、切花作付面積は六町八反に増加し、表作はダリア・グラジオラス・桔梗(ききょう)、裏作にはアイリスを本格的に導入栽培し、土地利用の高度化をはかり、昭和十二年には生産量・産額とも戦前の最高を示すに至った。このようにして上佐曽利は、昭和初期の不況期に「節約よりも積極的産業開発に重点を」おき、それまでは経験のなかった花卉園芸の研究と努力ならびに産業組合の組織運営よろしきを得て、みごとに自力更生し、戦後の繁栄の基礎を固めたのである。

写真195 上佐曽利のアイリス栽培 昭和51年撮影


 しかしながらそれには幸運もあった。戦時の作付統制は花卉栽培を不可能にしたが、上佐曽利は中部軍管区司令部の特別許可によって、花卉栽培を続けることができたのである。ダリアの球根にはイヌリンという果糖がコロイド状で多量に含まれているが、それが航空兵の栄養剤に適しており、その製造に当っていた武田化学株式会社の積極的な働きかけで、軍から兵庫県へ依頼して上佐曽利のダリア栽培が許可され、その面積五町歩は米麦生産の枠からはずされた。このようにしてダリア生産は戦時中も戦後も続けることができたのである。

写真196 上佐曽利園芸組合 ダリア加工場 昭和51年撮影


 良元村はイチゴ生産の拡大、小浜村はイチゴと観賞植物生産の増加により、長尾村はその伝統的園芸を基礎とし、西谷村の上佐曽利は新しい作物の検討と栽培技術の研究および産業組合のすぐれた協同運営によって、農村不況のなかの苦しさから自力更生した。その努力は高く評価されている。

写真197 安倉のイチゴの促成栽培
昭和50年撮影