西谷村の千本鉱山

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西谷村は山村であっただけに不況による影響は大きかった。出稼ぎや被傭労働で家計を補わなければならない家も多かった。多数の娘や主婦が田植え前の一カ月ほどは、良元村あたりの農家にとまりこみでイチゴ摘みの仕事に雇われたり、男子は長尾村付近の長尾山砂防工事に雇われたりした。このような労働力を吸引するものに、長谷や下佐曽利領域内の鉱山があった。
 西谷村の鉱山は、古くから多田銀銅山の一環をなしており、室町時代に繁盛し豊臣時代を経て寛文期には最盛期を迎え、元禄期以降衰退したことを第二巻に述べた(二一一・三八〇ページ参照)。
 明治になってからは、長谷の上畑仲右衛門が小畑鉱山の試掘願いを三十三年五月一日付で差出したこと以外は、今のところわからないが、おそらく試掘は何回もおこなわれたであろう。鉱区が設定されているものは、表79のとおりであるが、その経営についても今のところわからない。しかし下佐曽利の奥千本と長谷の口千本や駒宇佐鉱山は再々採掘が試みられたようである。長谷の古東義雄の記憶によれば、奥千本は大正年間に試掘され、同六年ごろ鉱脈にあたり、時の経営者は四斗樽をぬき〓(はく)祝いをして長谷や上・下佐曽利の人々を招いたという。発見された切羽(きりは)までは約三〇メートルの縦坑で、鉱内の燈火には種油を用い、鉱石は塩叺に入れて荷牛車にのせ、池田駅まで運んだ。経営者が代わり発電機を備え、鉱石運搬にはトロッコを用いるなどやや規模を拡大して、一棟四世帯の長屋八棟に親方に率いられた鉱夫が住み、一戸建ての家には鉱長や監督が住んだ。長谷や上・下佐曽利の人のなかには雑役として雇われ、またダイナマイトによる爆破技術を習得して鉱夫になるものもあった。選鉱場では女子も働いたが、大正末年には閉山したようである。
 

表79 西谷村内鉱山

登録番号鉱山名鉱 種町村名鉱画坪数鉱業権者住 所
登 27紺  青 銀  銅西   谷6,412山本憲介神戸市
  34駒宇佐 〃  〃西   谷26,700宇野 誠東京都
  45多  田 〃  〃中谷・西谷285,100日本鉱業(株)東京都
  83瑞  穂 銀銅亜鉛多田・西谷113,500村田義一兵庫県
  158千  本金銀銅鉛亜鉛西   谷90,932深井喜代松池田市
  219吉  雄亜  炭西   谷568,400野間計一外1名京都市

大阪商工局「鉱区一覧」より 昭和22年4月1日現在


 
 昭和五年七月三十一日夜の長谷の総集会において、「鉱山ニ関シ貸地ノ件並道路増設ノ件」が議題とされ、「本村ノ現状ニ照シテ鉱業家ヲ迎ヘル事ハ誠ニ結構」と思うので、共有地および墓の貸借契約は役員に一任するが、「上畑氏ヨリ鉱山道路其他辯明歓迎ノ意ヲ表スルト共ニ永遠性ヲ祈」ると決議している。この鉱山は小字イヤ谷小畑の駒宇佐鉱山にほぼまちがいないが、天正鉱山ともよんでいたようであって、昭和五年十月一日の記録には、長谷に住み、この鉱山で働く者八名の姓名が記されている。八時間労働の三交替制であったというから、不況期には長谷のみならず、上・下佐曽利の一部の人の働き場所となったのである。
 不況期の長谷は青年団の自力更正への努力もあって、昭和五年には胡瓜・三つ葉・ホーレン草などの栽培をすすめ池田市場へリヤカーなどで出荷した。これが長谷における野菜生産の出発点となった。この年は長谷の頼母子講への掛金をかけることのできない農家もあり、翌六年二月十二日には「頼母子講員連中会協議」がおこなわれ、つぎのようにきまった。「米価三十円前後が十七、八円に突比なる値下りをなしたると又経済不況の深刻なるに依り特に本年と翌七年十二月迄を限度として二ケ年無尽とし」た。この無尽の利用よろしきを得て土地を取得する者もあり、また他方掛け金のために働き口をさがさなければならない者もあった。むらは、働きたくても働きさきのない人にその場を与えるため、部落共有林の一部を抵当にして低利金五〇〇〇円を借入れ、その内一〇〇〇円を山林開発林道改修費にあて、働いた者に日当九〇銭を支払うことにした。またその資金の一部で貸家を建て、小学校の首席訓導に借りてもらい、家賃を返済金にあてるとともに、残金を西谷信用組合に預金し金利をかせぐことにした。このような時であったから鉱山の再開は歓迎されたのである。しかし駒宇佐鉱山はやがて旧坑道に突き当り閉山するに至った。
 その後も口千本鉱山の採掘がおこなわれたことがある。その時期は明らかでないが、「長谷・芝辻新田集会決議録」の昭和十三年十月二十九日の項に、「教員住宅ニ付岡村先生出宅後種々ト学校及ビ役場ノ方ヘモ住居セラル様依願致シ居リシモ現在ニ於テ不在ニ付今回鉱山事務員借用ノ旨区長ヘ依頼ニ付相談ヲナス」と記されているので、このころにはすでに口千本鉱山の採掘がおこなわれていたと思われる。口千本は出水がか多ったので水ぬき道を作り、削岩機を用いたが、鉱石の量は少なく、昭和十六年ころにはすでに閉山していたようである。