小浜村消防協会設立のことが、昭和七年一月二十四日の役員会で協議された。村当局は協会設立につき、その基本金を得るために宝塚新温泉に交渉したが、それだけの余力がないとのことで、小浜村消防手席料を削減することによって捻出することになった。部落では消防手酒肴料一カ年分のうち約五〇円を補助金として支出することにした。
昭和十一年五月二日には、ガソリンポンプ購入の問題が生じた。すなわち消防第四部および第五部より、時勢の進運によりまた運用上、ぜひ各部へガソリンポンプを購入されたいとの申出があったが、購入費および維持費に難問題があるので、このさい中型自動車ポンプを購入して二部の共同使用とし、消防組人員の減少などにより経費節約をはかってはどうかということになり、消防組の意見を聞くこととなった。
他方経費の問題については部落総集会を開き、従来は等級割で徴収していたのをこの件については家屋税割半分・等級割半分とし、自動車ポンプ一台を購入する案につき意向をただすことにした。
同年九月九日役員会での報告では、上・下安倉総集会で総意をはかったところ、役員協議のとおりでよいということであった。そこで、九月二十八日この結果を部落役員から各部消防組小頭に伝え、「部落治マリ上善処方ヲ依頼」したところ、第五部は部落役員に一任するとのことであったが、第四部は消防手の総意として消防組の統制上共同動作の意志なく、消防第四部独自の立場で購入したいという意向を表明したので、役員会は当惑した。一カ月後の十月二十七日の役員会では、「今後部落円満上各部ガソリンポンプ購入スルノ外ナシトノ気分」になり、いかにして購入するかの問題となった。翌二十八日、某氏立会のもとに第四部・第五部に対し、従来の行きがかりを一掃し「円満上村消防何等ワタカマリナク共ニ気持ヨク買求メタシ」との意向を伝えた。
しかしながら第四部は、部落と相反し単独行動をとり種々非難をうけているが、確かな信念に基づいて意向を述べているのであって、役員会が具体案を示さなければ白紙で一任することは困難であるといい、また第五部も最初は役員会に一任する意向のようにみえたが、明確な意志表示ではなかったということで、役員会は「絶対行ツマレル状態」に立ちいたった。これを役員会に報告したが、参集者不揃(ふぞろ)いで協議ができず、その夜再度招集したが、出席者少数で流会となった。
十一月四日の役員会では、つぎのような提案のもとに順次協議し意見をまとめた。(一)消防問題を直接官庁に報告し、公平なる批評を受けること。(これに対しては、部落自治問題はできる限り部落で解決したいという意見が強かった)(二)両消防組に妥協させる案を出すこと。(これに対しては見込が薄いので中止する)(三)接衝委員を選出し裏面において解決するよう接衝すること。(これに対しては、重大問題であるから委員の選定が困難であり、採決にいたらなかった)(四)部落より補助金を支出し、残部は各部受益者負担で購入する以外良案があるだろうか。(これに対し、一台購入については同意があるが、二台については再度一般集会を開き賛成を得なければならないという結論となった)この決定によって、上・下安倉総集会を開いたところ、部落治まり上、ガソリンポンプ二台購入に賛成するが、一台の場合は自動車ポンプを購入するとのことでもあったので、部落補助金はなるべく多額にしてほしいということになった。役員会では検討の結果、「上下円満上補助額ハガソリンポンプ一台ニ付金壱千円」としたが、維持費の件はきまらなかった。しかしともかく購入の方向で考え、補助金二〇〇〇円は小浜信用組合より一時借用とし、総代を債務者、副総代・水利委員・評議員の六人が役員名儀で保証人となり、期間一カ年、日歩一銭九厘、借用証書書式で借用することとした。
翌十二年一月十八日役員会は、「部落内火災再出ニヨリ稲荷神社ニ参拝ノ件」を議し、一月二十七日には右借用金を返済する方法を協議し、つぎのような結論に達した。消防の経費徴収については従来各部がそれぞれ徴収方法をきめていたが、今回は同一部落内で同一物を同一の時期に同一の補助金により購入することであるから、第四・第五部における徴収方法も同一の方法によるのが「円満ナラン」ということになり、各部徴収金額は異なるが、賦課方法は同一の方式をとることとし、従来の等級割を改め、今回は賦課総額の半額を等級割、他の半額を家屋税割とする。ただし、これによりはなはだしく不均衡と思われるものがあるときは役員会の協議により決定する。徴収用紙は部落費徴収用紙とは別のものを使用することになった。
ポンプ購入式は両部共同主催のもとにおこなうことになり、二月に入って購入式準備ならびに稲荷神社建立の件を協議した。昭和十一年五月二日から十二年二月まで少くとも二回の役員会および二回の上・下安倉総集会によって協議してきたガソリンポンプ購入の難問題も、部落円満と負担の平等とを原則として、すべての人々が納得するような結論を得てようやく解決したのであった。急いで多数決による方法がとられていたならば、おそらく部落の内に痼(しこり)が永く残ったことであろう。