しかしながら徴収される農家の側からみると、最も身近かな団体である部落会の協議費すら滞納せざるを得ない状況に追いこめられていたのであった。安倉部落は当時小作農の多かったむらで、昭和八年現在農家総数の五〇%を占め、自小作農二九・五%、自作農は二〇・五%であったが、この半数を占めていた小作農家はとくに苦しかったと思われる。
農家の窮状は部落会の活動や記録にもあらわれている。昭和五年度予算には道路費の「緊縮」が記され、昭和六年度予算では「物価低落の関係上」「前年額ヨリ凡一割減額」とし、同年七月二十二日の役員会では「川辺郡婦人研究会ヨリ各婦人会相談ノ結果、現今財界不振及思想困難ノ時節柄国民大ニ覚醒(かくせい)シ精神緊張シ、最モ経済節約ヲ謀リ且実行スル話ヲ役員会ヘ持出シ議セシ処、其レハ誠ニ宜敷トノ事了解ヲ得タリ」と記されている。なおこの年は不況の激化に加えて、「天候不良ニ付二化螟虫(めいちゆう)ノ発生憂慮」が現実化して凶作の年となり、農村不況は深刻の度を加えたのであった。昭和九年は室戸台風による大被害と大凶作の年であり、漸く不況から立直りかけた農家にとって大きな打撃であった。部落協議費の滞納の累積は、右のような諸事情によるものであって、農家にとっても部落にとっても、まことに困難な時期であった。