時局の影響

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昭和六年九月十八日の柳条溝満鉄線路爆破事件によっていわゆる満州事変が起こり、さらに昭和十二年七月七日の蘆溝橋事件により日中戦争が始まって、部落会の協議にもその影響があらわれた。昭和九年七月二十六日に開始される近畿防空大演習に関して、その前日二十五日に部落協議会が開かれ、防空演習に参加する青年団や消防団員に一人当り一〇銭程度の間食を支給するよう決定した。それ以来、防空演習の記録があらわれる。昭和十年五月二十日には消防警鐘台設置の問題が生じ、その経費をどのように調達するかが協議された。消防臨時費は従来、各区負担で各区毎に徴収したが、下安倉よりの希望で部落会の全額支出か、あるいは補助金支出かについて協議し、結局半額を部落会負担、残部は徴収することにきまった。なおこのさい警鐘の代わりにサイレンを使用してはとの意見があり、研究することになった。時局は半鐘をサイレンに変えたのである。
 同年九月四日の協議で、秋期氏神祭典は当日が防空演習実施日にあたるので、本年に限り一日早く十月十一日におこなうことを氏子総代にはかり、その後役員会で決定することにした。前述した部落消防団のガソリンポンプ購入問題も、時局の進展に深い関係があった。同十一年十一月四日には、入・退営者の歓送迎には美食を廃し旗幟はいっさい用いないことをきめた。昭和十二年十月三日の協議事項の一つは、奉公会員募集の件で、会員は町議員・青年団・国防婦人会・軍友会で募集することとした。いま一つは軍事扶助相談所設置の件であって、小浜村軍事扶助委員として安倉の人三名がすでにきまっているが、安倉部落の委員をどうするかについて協議し、「町議員、青年団員、国防婦人会ヲ以テ委員トナス」こととした。同年十二月十七日には、南京入場提灯行列を同日午後七時村社に集合しておこない、各出征家庭を巡回して祝意を表すことにし、提灯・ローソクは部落会で負担することにした。同月十九日には、「国民精神総動員ノ主旨ニ則応シテ支配割(部落費割当)当日ノ賄ヲ可成緊縮シテ質素ニ行フ事」とした。
 昭和十三年六月二十三日には、出征兵の家庭の田植えに勤労奉仕として手伝う件を協議し、上安倉と下安倉とに分かれておこなうことをきめた。同年八月十二日には、国民貯金組合組織について協議し、総集会において相談すること、ならびにできるだけ節約して分に応じた国民貯金をするようよびかけること、また毛布献納の件を決定した。十月三日にはつぎの二件が協議決定された。「稲刈日程ヲ定ムル件 十月六日休ミ七日ハ応召兵ノ家庭ノ稲刈ヲ手伝ヒ 一般ハ八日ヨリ稲刈ヲナス事」「応召兵家庭農繁期労力奉仕並ニ間食ヲナスノ事 午前六時四〇分ニサイレンニテ青年会場ニ集会シテ各議員ノ割当ニ従ヒ従事スル事 仕事仕舞ハ午後四時ノサイレンニテ終ル 間食ハ安倉部落ヨリ一人(パン)拾銭ヲ配給ス」
 このようにして部落会は、戦争の拡大とともに戦時体制下の銃後の最末端組織に編成されていったのである。昭和十五年九月十一日内務省訓令第一七号「部落会町内会等整備要領」により、村落には部落会、市街地には町内会を組織し、区域内全戸を会員とし、「地域的組織タルト共ニ市町村ノ補助的下部組織」、すなわち戦時の部落会・町内会となり、昭和二十二年五月三日「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く町内会部落会又はその連合会等に関する解散、就職禁止その他の行為の制限に関する政令」(政令第一五号)により解散するまで存続した。その後はもとの部落自治会にもどり、その名称も「安倉自治会」とすることになる。