隣保制度と銃後の守り

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昭和十二年六月第一次近衛内閣が成立し、七月七日の蘆溝橋事件により日中戦争が始まり、国内は準戦時体制から戦時体制へ急速に進展していった。そして政府は昭和十二年九月から国民精神総動員運動をはじめた。「八紘(はつこう)一宇」・「挙国一致」・「堅忍持久」などのスローガンのもとに、消費節約、貯蓄奨励、勤労奉仕、生活改善を説いた。また翌十三年五月には「交隣相助、共同防衛」の目的をもつ隣保(隣組)を組織する制度が制定された。
 隣保制度は戦時体制下における国民生活をもっとも強く規制したもので、聖戦完遂のかけ声とともに、広く社会生活の母体として新体制運動を推進してゆくものであった。それが部落会・町内会・隣保班という組織のもとに、地方制度の末端組織にくみこまれていったのが、昭和十五年九月十一日の内務省訓令第一七号による「部落会町内会等整備要領」である。
 その目的は、(一)隣保団結の精神にもとづき、市町村内住民を組織結合し、万民翼賛の本旨にのっとり、地方共同の任務を遂行させること、(二)国民の道徳的錬成と精神的団結をはかる基礎組織とすること、(三)国策をひろく国民に透徹させ、国政万般の円滑な運用に資すること、(四)国民経済生活の地域的統制単位として、統制経済の運用と国民生活の安定上必要な機能を発揮させること、の四点である。ついで組織としては、部落会および町内会、隣保、市町村常会を設け、部落会は区域内全戸をもって組織し、隣保は部落会のもとに五人組などの旧慣を尊重し一〇戸内外の戸数で構成し、部落会の隣保実行組織とした。
 この内務省訓令にもとづき、兵庫県は県訓令甲第二五号「部落会町内会等ノ整備指導ニ関スル件」により、大政翼賛会(昭和十五年十月十二日発会)の地方支部組織とは別の組織として整備強化された。