日中戦争も長期化の様相を示し、大陸に出征する兵士が激増するにつれて、国民皆兵と隣保相扶の精神にのっとって、昭和十四年四月一日より小浜村にも銃後奉公会が結成された。この銃後奉公会というのはそれ以前からつくられていた軍事奉公会を改めたもので、事務所は役場におかれた。
その目的は、挙郷一致して兵役義務励行の準備をととのえるとともに、軍事援護の実施にあたり、ますます義勇奉公の精神を振興するためであった。銃後とは戦場に対することばであり、内地にあって間接的に戦争に関与している国民一人々々が、隣保相互の協力体制のもとに、戦争完徹のために一致団結してゆくことを呼びかけたものである。
その組織は、小浜村に居住する世帯主をもって会員とし、村長を会長に、助役を副会長に、評議員には安倉・小浜・米谷・川面・栄町の各区長、帝国在郷軍人会小浜村分会長、宝塚軍友会長、国防婦人会宝塚分会長・同小浜分会長をもって組織された。そしてその経費は前記会員が負担した。
その主な事業としては、兵役義務心の昂揚、隣保相扶の道義心の振作、兵役義務服行の準備、現役または応召軍人・傷痍(しょうい)軍人およびその遺家族の援護、労力奉仕その他家業の援助、弔慰・弔問・慰藉、軍事援護思想の普及徹底などであった。したがって毎年事業報告と収支決算が報告されたが、歳出の主なものは、軍隊慰問費・家族慰問慰藉費・生活援護費であって、直接には出征軍人とその遺家族を、物質的にも精神的にも援助してゆく点にあった。それが銃後に残された国民の務めとして義務づけられていた。