応召軍人の歓送

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日中戦争が勃発した当初は、日本軍は中国大陸でやつぎばやにはなばなしい戦果をおさめ、その都度、はでな祝賀会や旗行列・提灯行列が、小学生をもまじえておこなわれた。昭和十二年十月十三日に、西谷小学校では大原野神社で南京陥落祝賀式をおこない、そのあと旗行列をし、良元小学校でも同じ年の十一月一日、皇軍武運長久の祝賀式をおこない、終わって戦勝祝賀旗行列をおこなっている。翌十三年五月二十一日には、徐州陥落祝賀旗行列を、同じく十月二十八日には漢口陥落祝賀旗行列をして戦勝を祝ったと、小学校の学校日誌にも書きとめられている。
 しかし昭和十五年九月になって、小浜村はその公報で「其ノ筋ノ通牒(つうちよう)」により、これまでの方法を改めて、あまりはでにならないように自粛を呼びかけた。まず第一に、これまで銃後奉公会の定めにより、村から幟(のぼり)や提灯を贈呈されていたのを改めて、今後は入退営者(応召)の門戸に国旗を掲揚し、慶祝の意をあらわすことになった。また入退営にさいしては、これまで多数の友人・知己を招待し、盛宴を催したり、送別会をおこなっていたが、これを廃止し、また入営者に対してそのつど氏神神社で祈願祭をおこなったあと歓送式をして、見送り人が駅まで旗行列をしていたのも廃して、神社でそのまま解散することに改められた。
 以後、出征兵士を見送る幟や提灯行列もみられなくなり、また村中でにぎやかな酒宴を開いて送別する光景もみられなくなった。それは単に華美になることをいましめたものというよりは、戦争がそれだけ深刻化してゆき、迫りくる太平洋戦争へと泥沼化していく様相でもあった。