戦争が長期化するにつれ、昭和十二年九月国民精神総動員運動がはじまり、十三年四月国家総動員法が制定され、政治・経済の両面で本格的な戦争遂行体制があらたな軌道に乗るのに並行して、いわゆる新体制運動が急速に進んだ。
昭和十五年十月十二日、新体制運動の結実として、大政翼賛会が発足した。総裁は首相近衛文麿が兼任し、地方支部長は各府県知事が兼任するという官製組織の濃いものであった。この大政翼賛会はその後、中央から地方にいたるまで、社会各界各層の民間指導者層を組み入れて、社会生活のすみずみにまで「上意下達」の網をはっていった。昭和十六年には大政翼賛運動を活発にするため、各町内会と各種職域団体より選ばれた推進員がおかれた(人口一万以上、二万未満の町村には八人以内)。その活動は部落会・町内会での翼賛運動を率先して国民に徹底させるためで、心身健全にして地域または職域において日常進んで職分に邁進(まいしん)し、旺盛な実践力と指導力をもった者を、推進員として支部長が任命し、その指揮監督のもとにはいった。しかしこの組織活動はじゅうぶんな成果をあげず、またこの組織そのものが部落会の組織とまぎらわしい存在であったので、十七年八月十四日部落会は大政翼賛会の下部組織に編入された。
市域でも大政翼賛会小浜村支部、良元村支部など各村に支部が設けられ、村長が支部長を兼任した。さらに実践運動の面で翼賛会を強化してゆくため、全国的に外郭団体として昭和十六年に翼賛壮年団が組織された。「良元村翼賛壮年団則」によると、事務局は良元村支部におかれ、地域・職域で翼賛運動に挺身する目的で、二一歳以上の男子青壮年のなかから団員が選ばれ、国民精神の昂揚、時局認識の徹底、興亜運動の推進、国策遂行への挺身、地域的・職域的翼賛体制の促進化、などの実践遂行を主要な任務とした。
さらに、大政翼賛会のもとに新体制が強制され、つぎのような実践運動が展開されていった。
国民貯蓄奨励運動(昭和十六年九月一日~十一月末日)
銃後奉公強化運動(昭和十六年十月三日~七日)
経済道義昂揚運動(昭和十七年二月三日~九日)
この新体制運動のもとに、劇場は国民新劇場と改名、国民大会・国民食・国民服・国民儀礼・国民貯蓄など、何でも「国民」が前面におし出された。そして昭和十七年には小学校も「国民学校」に改められた。