物資欠乏と配給制

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戦争による物資不足は、まず昭和十三年六月の綿製品の製造・販売の禁止からはじまった。すでに前年七月の支那事変の勃発以来、戦争のための必需物資の輸入を確保するため、民需を抑えざるをえなくなった。輸出・軍需を除いて、民需にはスフその他の人造繊維を三割以上混用することが強制された。
 同年五月にはガソリン・重油も同じ理由から割当切符制となり、街には木炭・薪自動車が出現した。
 こうして経済統制が加えられてくるなかで、昭和十四年三月に賃金が統制され、さらに十月に物価統制令によって、あらゆる物価に統制が加えられた。同年十一月には兵庫県より各郡村へ「地代家賃統制令の実施に就て」の通達があった。十二月には良元村経済更生委員会より「地下足袋配給ニ関スル件」で、地下足袋の配給切符が交付され、小売店に平塚信太郎・高橋多三郎・馬殿友吉の三店が指定された。インフレの進行と物資不足による、需給の極端な不均衡から生ずる価格の暴騰を抑えるため、公定価格の制度がとりいれられ、価格以外で需給のバランスをはかるため切符制が導入された。
 昭和十五年六月には砂糖・マッチが切符制になった。安倉の「砂糖・燐寸配給原簿控」には、「砂糖・マッチ配給戸口調査票」に記入された各世帯の家族構成員が列挙されている。マッチは一日一人一五本、砂糖は月半斤(三〇〇グラム)で、畑本・辻・浅野の三商店が指定された。
 また十五年一月には、国民精神総動員中央連盟より「戦時節米報国運動について」と題する小冊子が配布され、節米運動が展開された。昭和十六年四月には、東京・大阪・名古屋・京都・横浜で米が配給制となり、十七年三月までに全国で施行された。良元村では十六年五月に「食糧米配給通帳実施ニ関スル事務取扱要項」にもとづき、その準備が進められた。配給される米は普通大人で一日二合三勺(三三〇グラム)であった。
 その後十七年一月には通帳制による塩の配給、二月には衣料切符による衣料品の配給、通帳制による一般家庭用味噌・醤油の配給、十月には通帳制による蔬菜・果実・鮮魚・海産物の配給などを開始し、とくに青果物・鮮魚については、一定の配給所に購買登録をする登録配給が実施された。
 このようにして、十七年までに日常生活物資のすべてに配給制がとられ、耐乏の生活を強いられた。