阪神工業地帯として、西宮・尼崎・伊丹に重工業・化学工業の工場が建設されるなかで、宝塚市は比較的平穏な田園地帯であったが、ここに軍需産業振興のあおりで、昭和十三年から二つの軍需工場が建設された。
昭和十三年六月に、昭和ベアリング製造株式会社の新工場が、武庫川べりの用地一三万平方メートル(現在一五万平方メートル)を買収して、建設された。この会社は東洋ベアリング製造株式会社の傍系会社として設立された。
東洋ベアリングの創業は大正七年で、西園二郎が三重県桑名で経営する西園鉄工所にはじまり、当時舶来品に限られていたボールベアリングの国産化を試みた。昭和二年には合資会社エヌ・チー・エヌ製作所となり、同九年には株式会社に、同十二年には東洋ベアリング製造株式会社と改名した。翌十三年三月には軍部の要請で満洲ベアリング製造株式会社を設立、瀋陽(奉天)に工場を建設した。国内では軍需生産増大の国策にこたえ、宝塚工場を建設したものである。そして十四年七月には全工場が陸海軍共同管理工場の指定をうけ、軍の監督のもとに操業した。この年の十二月、宝塚の昭和ベアリング製造株式会社は、親会社の東洋ベアリング製造株式会社と対等条件で合併し、その武庫川工場となったのである。
川西航空機株式会社は、昭和十五年十二月兵庫県武庫郡良元村に、宝塚製作所の建設を決定し、翌十六年十二月に新工場として機械部・補機部・兵器部をおいて作業を開始した。
同社は昭和三年に神戸市兵庫区和田山通にあった川西機械製作所(大正九年川西清兵衛が設立)の飛行機部を継承独立し、海軍軍用飛行機の製造に着手したのに始まる。そして昭和五年十二月神戸市より本社と工場を武庫郡鳴尾村に移転して生産を開始した。昭和十一年にはわが国最初の四発大型飛行艇(九七式飛行艇)を完成し、昭和十三年以来海軍より命じられた生産力拡充計画のもとで、一貫して飛行機の大量生産に従事した。また昭和十六年五月に武庫郡本庄村青木海岸埋立地に甲南製作所を建設し、太平洋戦争勃発後は海軍より航空機の飛躍的大増産を命ぜられ、宝塚製作所もその軌道にのって本格的に生産を拡充していった。これによって当然工場勤務者も多くなり、阪急電車ではとくに仁川―小林間に臨時鹿塩停留場を設けて通勤者の便宜をはかった。