徴用と勤労動員

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このようになによりも軍需産業優先政策のもとに、軍需生産体制が確立してくる一方で、膨大な労務者需要にこたえるために、強力な労務充足手段が必要であった。そこで政府は国民総動員法にもとづいて国民登録(十三年七月)ならびに国民徴用令(十四年七月)を公布し、国民登録の申告者について徴用をおこない、指定した工場その他で働かせることにした。また従事者移動防止令(十五年十一月)や国民労務手帳制度(十六年三月)を実施し、労務者が配置された工場または事業場から自由に移動することを防止したが、徴用の本格化は十六年にはいってからであった。
 川西航空機株式会社では、昭和十六年八月第一次現業員徴用を実施した。これは国民徴用令の最初の発動であり、現場での人的給源の枯渇に対処するため、徴用令の適用をうけたものである。さらに同年十二月に軍需品生産作業要員充足のため、政府は国民勤労報国協力令を発令して、国民勤労報国団協力会もできた。また勤労報国隊の常時組織の結成、学徒動員・女子挺身隊の結成がみられ、十九年には国をあげて働ける者はすべて戦列につき、一億総動員化がかけられた。

写真220 小林聖心女子学院女子挺身隊
(小林聖心女子学院提供)


 これにより川西航空機の宝塚製作所にも学徒動員令のもとに、関西学院をはじめ神戸女学院・兵庫県立伊丹中学校・同第一中学校などの学生・生徒が動員され、女子挺身隊として小林聖心女子学院・宝塚音楽歌劇学校の生徒も働いていた。
 東洋ベアリング武庫川工場においても同様に、学徒動員がはじまり、多くの若い男女の生徒が勤労に従事した。