本土空襲

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太平洋戦争もたけなわとなり、敵機がはじめて本土空襲をしたのは、昭和十七年四月十八日で、東京・横浜・名古屋・神戸の各都市を初空襲したが、その被害はまだ僅少であった。しかし銃後もまた第一線なりとの危機感を高め、防空体制が一段と強化された。
 昭和十九年十月二十四日レイテ沖海戦で、日本艦隊の主力が壊滅した。十一月一日にはマリアナ基地のB29爆撃機が東京を初偵察し、二十四日にはB29約七〇機が東京を初爆撃した。その後日本軍の敗色はいよいよ濃くなり、二十年四月一日米軍が沖縄本島に上陸、六月二十三日に守備軍は全滅した。制空権を完全に握った米軍は、沖縄基地からB24を、マリアナ基地からB29をもって連日日本本土を波状攻撃し、焼夷弾を投下した。
 二十年に入ると、阪神地方でも空襲が本格化した。西宮では五月十一日から、以後六月五日・十五日、七月二十四日、八月五、六日の前後五回にわたって大規模な空襲をうけた。尼崎でも、六月七日・十五日、七月九日・十日・十五日・十九日、八月五、六日など一〇回にもわたって爆撃された。いずれも工場地帯をねらったものであった。