宝塚新温泉の接収と宝塚海軍航空隊

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昭和十九年三月の非常措置令により、宝塚大劇場は三月四日をもって閉鎖されることになり、その最後の公演が三月三・四両日おこなわれ、超満員の観客を集め幕を閉じた。そのあと大劇場は閉鎖され、遊園地のみが宝塚厚生遊園地として営業したが、大劇場は海軍に接収されることになった。
 六月一日付で海軍に接収された宝塚新温泉施設は、大竹海兵団の先遣部隊が設営にあたり、八月二十五日に滋賀海軍航空隊奈良分遣隊から、第一三期甲種海軍飛行予科練習生約一〇〇〇名が入隊し、ここに滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊が発足した。つづいて十二月一日には第一四期生約一〇〇〇名、翌年四月には第一五期生、そして六月には第一六期生が入隊してくる一方、第一三期生は十二月ごろより回天練習基地などへしだいに転属されていった。そして二十年三月一日には宝塚分遣隊は独立して、宝塚海軍航空隊と改名した。したがってこの間常時三五〇〇名から四〇〇〇名近くの海軍将兵が、宝塚大劇場をはじめ諸施設を利用して生活していた。
 二十年七月三十一日に第一六期の二〇〇名は淡路前線基地陣地構築のための部隊に編成され、宝塚を出発して岡山・宇野から高松にわたって鳴戸の撫養(むや)(徳島県)で一泊、翌日撫養から淡路の阿那賀(西淡町)に、機帆船に乗船して渡海中、八月二日午前九時ごろ敵機の来襲をうけて八二名が戦死した。いまも阿那賀にはこれらの若き海鷲たちの霊を祭って、慰霊塔が建っている。
 昭和二十年八月六日には広島に、ついで同九日には長崎に原子爆弾が投下され、戦局は日本の完全な敗北を決定づけるものとなったのである。