連合軍の占領政策のなかで、直接国民生活にかかわるものとして、公職追放令(一般に「パージ」と呼ばれた)の実施があった。その内容は、戦争遂行にかかわりのあった指導者は、階層のいかんを問わず、その職から退くばかりでなく、一歩もその建物に立入ることをも許さないというきびしいものであった。この適用はGHQがおこなうもので、きわめて形式的なものであり、職業軍人をはじめ高級官吏や政党・言論界・経済界などの指導者はもちろん、いわゆる大政翼賛会の組織につながり、およそ「長」と名のつくものはすべて二十一年から二十二年にかけて大量に追放されることになった。
ことに地方公職追放については、市町村長をはじめ助役や県・市・町・村会議員とか、地域組織としての町内会長なども、その適用をうけて退職した。職域では言論報国会・産業報国会・商業報国会などの組織も、それに含まれるので、民間もふくめてすべての指導者は社会の第一線から退くという状態であった。それはあらゆる組織の若返りとなりうる契機ではあったが、反面地方行政などではその人的構成のうえでも、運営のうえでも、支障をきたす場合も少なくなかった。「追放旋風」ということばがはやったのも、このころのことである。
しかしその後、アメリカの対日占領政策に大きな転換がみられるようになり、二十五年六月の第一次追放令解除につづいて、二十七年四月の平和条約発効によって、日本が完全な自主独立を回復するまでに、順次追放解除が発表されていった。