前述のとおり、進駐軍による宝塚地区への進駐は、アメリカ第六軍第一軍団に属する第三三師団で、司令部を神戸市において、二十年九月二十五日から開始された。それによって宝塚新温泉諸施設をはじめ、宝塚ホテル・同ゴルフ場、それに川西航空機株式会社宝塚製作所(第二節「旧川西航空機株式会社宝塚製作所跡地をめぐる紛争」参照)・東洋ベアリング製造株式会社武庫川工場と民家の接収があった。
宝塚新温泉は、二十年九月二十五日海軍航空隊よりの接収解除がなされる前日の二十四日、海軍に代わって連合軍の宝塚への進駐を通告され、映画劇場および厚生遊園地は営業を中止し、九月二十六日には進駐軍が宝塚へ到着した。翌二十七日より厚生遊園地のみは営業をおこなったが、宝塚大劇場などの新温泉の施設は進駐軍によって使用された。十月十四日には宝塚大劇場で進駐軍慰問公演がおこなわれ、好評を博した。幸い翌二十一年二月五日には、これら宝塚新温泉・大劇場その他の諸施設は米国進駐軍から返還され、海軍接収より三年目でようやく宝塚歌劇の手に返ってきたのである。
宝塚ホテルは二十年九月の連合軍進駐と同時に進駐軍将校宿舎として接収され、ホテル営業は半ば休業の状態となった。そこでやむをえず翌二十一年四月に中洲の「宝塚会館」内の食堂を賃借りし、そこで食堂営業と喫茶業をはじめた。宝塚ホテルが返還されたのは、三十年二月十日で、ただちに復旧工事をおこない、同年五月二十一日に新装なって営業を再開した。
また東洋ベアリング製造株式会社武庫川工場も二十年九月、進駐軍到着と同時に、同工場の大半が接収された。しかも宿舎に改装するために工場建物内の機械類は強制的に取り片付けを命じられ、多くの機械器具が損傷したと伝えられている。同社は、桑名工場が空襲によって爆破され、残った武庫川工場は接収され、主力の二工場を失って、会社経営は惨憺(さんたん)たる状態であった。残された駒野工場と桑名工場隣接の鋼球工場に疎開機械を集めて、二十一年春ごろよりかろうじて操業を再開するという状況であった。しかし同年八月にいたり、桑名・武庫川・駒野の三工場とも全部賠償に指定された(これは昭和二十七年四月に解除)。そのため翌二十二年五月には武庫川工場の接収は解除された。
なお進駐軍将校用の住宅として、宝塚南口から逆瀬川地区および仁川地区の高級住宅地も接収された。壁はペンキに塗りかえられ、網戸が張られて、畳の日本間は洋間に改造され、和式便所は洋式便所に改められるなど、その様式をすっかり一変して使用された。これらの個人住宅地が持主に返還されたのは、二十七年のサンフランシスコ平和条約発効後のことであった。