しかし他方、すでに戦争末期より問題となっていたゴルフ場の競馬場への転換の動きが、二十三年より再燃してきた。日本競馬会では阪神競馬場長の立案によってすでに競馬場化への青写真もできあがり、米軍に対して宝塚コース一部返還願いが提出されていた。これに対して米軍の方では、「宝塚ゴルフコースの一部を競馬場に使用のため返還方の希望は、米軍将兵の保健と休養のため必要なる施設につき、このさい競馬場への模様替えは許可いたし難い」として、要求を却下したのである。
そこで競馬会は問題を中央に移し、ゴルフ場の競馬場化の設計を急いでいた。そのころ馬主の要望によって京阪神競馬株式会社が設立され、仁川の旧川西航空機株式会社宝塚製作所の戦災地跡を買収してレーストラックを建設し、この馬場を阪神競馬場に貸与して国営競馬が再開された。
しかしこれは一時しのぎの措置であって、本格的な競馬場計画は、農林省の所轄する宝塚ゴルフ場を含む国有地三五万坪の馬場構想であったから、情勢は楽観を許さなかった。そこで倶楽部側でも進駐軍をバックに中央と対決する姿勢をとって、極力競馬場化を牽制した。
二十六年日米平和条約締結により接収解除についての交渉がつづけられ、十二月一日正式にゴルフ場の米軍接収が解除された。宝塚ゴルフ場は六年間に及んだ進駐軍の管理から、ふたたび倶楽部側の手に戻ってきたのである。
しかし二十七年になって、すでに仁川ゴルフ倶楽部内の阪神競馬事務所では、コース内に馬場の調教場新設計画を決定し、工事に着手していた。それを倶楽部側の説得で、ともかくこのレーストラック建設案を中止させ、ゴルフコースの使用はかろうじて現状維持ということになったのである。