歌劇団宝塚にもどる

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宝塚の名が少女歌劇のヨーロッパおよびアメリカ公演によって世界に知られるようになったころは、戦争が全面的に拡大し、宝塚における歌劇公演は一時中断する形となった。そして敗戦――。戦争に疲れきった廃墟のなかで、ただ茫然と立ちすくんでいた国民大衆にとって、夢とロマンを与えてくれたのが宝塚歌劇であった。
 このような時にこそ人々の生きる意欲を鼓舞する明るい歌と花とが必要であった。同じ年の八月二十五日に宝塚音楽歌劇学校挺身隊は解かれ、九月一日からレッスンが再開された。天津乙女ら全員が署名した宝塚大劇場接収解除歎願書が効を奏し、翌二十一年二月五日接収が解除された。大劇場公演は、兵庫県に発疹チフスが発生したため、おくれて四月二十二日歌劇「カルメン」およびレビュー「春のをどり」の幕が、ふたたびあいたのである。アメリカ軍の駐日により進駐軍慰問公演をしたり、引き揚げ同胞援護基金募集に活動したりしたが、残っていた約二〇〇人の歌劇団員は舞台をもとの隆盛に復するよう努力した。同年十一月より公演したグランド・ショウ「センチメンタル・ヂャァニー」は翌二十二年に東京日本劇場でも上演し、越路吹雪のブギウギ・パリの歌がヒットして、宝塚歌劇の復活を世に示した。

写真232 宝塚大劇場再開「春のをどり」出演者全員の記念撮影   (宝塚歌劇団提供)


 この年は新温泉開場四〇周年にあたるので、宝塚町は新温泉の発展と歌劇の不断の向上を祝い、かつ感謝して祝賀の催しを四月八日から一週間盛大におこなった。