小林一三の死

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宝塚に電車を走らせ、歌劇を育て、宝塚の土地に生気を与え、また数々の会社を経営し、昭和十五年には第二次近衛内閣の商工大臣を、二十年には幣原内閣の国務大臣戦災復興院総裁をつとめた小林一三は、昭和三十二年一月二十五日夜八四歳の多彩な生涯を閉じ、不帰の客となった。
 三十一日宝塚大劇場の舞台に音楽学校生徒三一〇人が並び、宝塚交響楽団がショパンの「葬送行進曲」を奏して故人にふさわしい宝塚音楽学校葬がおこなわれた。昭和三十五年八月もとの宝塚文芸図書館を宝塚歌劇記念館とし、写真と資料で宝塚歌劇の歴史を展示し、またそのなかに小林一三記念室が設けられた。宝塚市は昭和三十二年二月小林一三を市功労者として顕彰した。