富岡鉄斎

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宝塚の名を世界にひろめたいま一つのものに、清荒神清澄寺の鉄斎コレクションがある。富岡鉄斎は、天保七年(一八三六)十二月十九日、京都三条通りの法衣商十一屋伝兵衛の次男として生まれ、大正十三年(一九二四)十二月三十一日八九歳で急逝した。初めの名は猷輔(ゆうすけ)、後に百錬、字無倦(むけん)、二十五歳の時から鉄斎と号した。彼は自ら儒学者であり、画家ではないと主張していたが、その文人画は古典のなかから画題をえらび、その語句を画賛とし、自分の絵画を見る時はまず賛を読んでほしいといっていたという。
 明治三十年(一八九七)京都の南画家が組織した日本南画協会に参加し出品したが、それ以外は審査員をつとめることはあっても出品することはなかった。古典的な各派の絵画技法を完全に体得して自由自在にそれを用いるようになった七〇歳代後半からの作品は、池大雅や浦上玉堂・田能村竹田のそれと並ぶものであり、明治大正期の間にその名を残す唯一の人であろうと激賞されている。八〇歳を越えてからの画風は、画面に余白を残して余韻を保つ東洋画固有の枯淡主義ではなく、空間の奥深さを執拗に追求して力強い筆勢が画面全体に及び鮮烈な印象を与えるものであって、ヨーロッパの後期印象派の画家セザンヌ(一八三九~一九〇六)やゴッホ(一八五三~九〇)にも比すべき世界的画家と高く評価されている。

写真236 鉄斎筆「蓬萊山図」
(清荒神清澄寺所蔵)