清荒神と鉄斎

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清澄寺法主の坂本光浄は、鉄斎の人格とその芸術を愛好し、その作品をすでに数百点集めていたが、大正十一年(一九二二)八七歳の鉄斎を初めて京都に訪れた。鉄斎はたいへん喜び「古佛龕図」(巻頭カラー写真1参照)を贈り、またその後「弘法大師在唐遊歴図」・「巌栖十八羅漢囲碁図」などを贈った。
 鉄斎八八歳の時清澄寺を訪れる意思があり、寺側でも迎える準備をしたが、高齢のため途中で不愉快な事故でもあるといけないので来訪をとりやめるよう寺側から申入れて、鉄斎の清澄寺訪問は実現しなかった。しかしながら両者の交友は続き、光浄の求めに応じて鉄斎は「赤壁の賦」の全部を三日三晩かかって書き上げ贈った。光浄は「聖者舟遊図」に鉄斎の人類愛の魂の芸術的表現を見て高く評価していた。
 大正十三年十二月十九日鉄斎の誕生日に光浄はその長寿を祈祷し、御供物などを使者に持たせて贈呈したところ、鉄斎はその返礼に「蓬萊山図」を贈って感謝した。しかし同二十八日付の光浄宛ての手紙は、自己の死を予見しているような内容のもので、それまでの交友を深く感謝している。それは彼の死の三日前の日付であり、おそらく絶筆であろう。清澄寺は、鉄斎の遺作・遺品約一〇〇〇点を蔵するといわれ、鉄斎寺とよばれるにいたった。

写真237 鉄斎から清澄寺法主にあてた手紙 大正13年12月28日付
(清荒神清澄寺所蔵)


 戦後、光浄は鉄斎の作品が芸術の世界で、国際間の交流に寄与するところ大なるを思い、海外巡回鉄斎展を実現した。昭和三十二年(一九五七)四月一日より三十四年一月末までの間、スミソニアン協会主催でニューヨーク市メトロポリタン美術館にはじまるアメリカ第一回巡回展がおこなわれ、ついで三十五年にはカナダ巡回展が、また翌年にはソ連巡回展およびブラジル・サンパウロ特別展、四十一年には兵庫県とワシントン州姉妹提携記念としてワシントン州巡回展、四十二年にはローマ・トリーノ・ケルン・ハンブルグ・ジュネーヴ・ロンドン・パリでのヨーロッパ巡回展、四十三年よりは第二回アメリカ巡回展をおこなった。光浄は第一回アメリカ展をはじめとして、たびたび海外に絵画とともにおもむき、鉄斎画を紹介してその画賛の意味する絵の魂と理念を説くことに努力した。また鉄斎研究所を創立し、鉄斎研究を推進している。宝塚の名は、鉄斎と清澄寺によっても広く世界に知られるようになった。光浄は四十四年九五歳で天寿を全うしたが、その偉業は継承されて、昭和五十年四月清澄寺内に鉄斎美術館が開館された。