阪神競馬場移転の問題

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もと良元村の旧川西航空機株式会社宝塚製作所(以下「旧川西航空」という)跡地の解放をめぐる紛争は、競馬場用地の問題がからんでいたが、それにはつぎのような経緯があった。
 全国一一カ所の国営競馬場のうちの一つであった武庫郡鳴尾村の元阪神競馬場は、昭和六年(一九三一)にできたものであったが、同十七年ごろ海軍の飛行場となった。そこで競馬場は良元村逆瀬川上流の地に約三六万坪の土地を買収して移転することになり、厩舎二五棟その他を含めて延面積約四〇〇〇坪の建設をしたが、戦争激化のため工事は中止された。終戦後その敷地のうち約一〇万坪が進駐軍のゴルフ場として接収されたので、それに代わるものとして旧川西航空の跡地約一五万坪が、右の事情解消の日まで、両三年間、仮設競馬場用地として選定されたのである。
 ところで、右の選定地に関してはまたつぎのようないきさつもあった。昭和十五年(一九四〇)六月ごろ、旧川西航空が海軍の斡旋により、工場設置のため買収に着手し、十六年十二月に約三六万坪の買収を終わった。戦時中この土地のうち約二二万坪は海軍に接収された。工場も昭和二十年七月二十四日の爆撃によって壊滅した。そして終戦後は、工場は賠償工場に指定され、一般人の立入は禁止された。
 この土地の当時の状況は、建物の敷地跡には、工場の残骸である鉄骨・鉄筋が乱立し、コンクリートの床面がこわれて残っており、あたり一面に瓦礫が散乱していた。
 三六万坪のうち八万坪は農地として、昭和二十一年十二月二日、昭和二十二年十月二日、二十三年三月二日、七月二目の四回にわたり、農地委員会が旧川西航空より買収し、六万坪は工場敷地と住宅地となった。残り二二万坪は「戦争補償特別措置法」第六〇条の規定によって、旧所有者である旧川西航空に払下げられることになっていたが、払下げ事務が未了で大蔵省所有名儀になっていた。
 このころになると、瓦礫は一カ所に集められ、一団地の面積一畝歩程の耕地が各所に点在するようになっていた。二十三年五月現在の利用面積は約三〇町歩、利用者は旧川西航空の工員が大部分で、若干の沖縄出身者を含む四九三名、一反歩以上の利用者は一〇〇名であったという。