跡地の利用

472 ~ 473 / 620ページ
さて、この旧川西航空跡地利用の問題については、昭和三十一年三月二十日財団法人農政調査会編纂・発行の『農地改革事件記録』によって述べよう。
 良元村の良元耕作者同盟(後出)は、この土地の耕作を始めた経緯をつぎのように述べている。「終戦直後、旧工場管理人との話合いによるもので、付近に散在せる廃材等を持出さない限り、現在の食糧事情よりして此の広大な土地を見捨てて置くことは国家的に大きな損失であると考え、三々五々耕作に着手し、其の後益々窮迫せる食糧事情にうながされて付近の村落が一致して大々的に耕作を始め、以後三年有半を経過して今日に至った。尚この開墾の労苦たるや言語に絶し、……肉体的労力の及ぶ最大限をもって現在見る如き耕地にまで仕上げた」
 また同同盟は二十三年六月現在の耕地化の現況についても記している。イ 熟田と比しても劣らぬ程立派に耕地化している所約一万二〇〇〇坪、ロ 立派に耕作せられている所約一〇万坪、ハ 該地の解放が決定されさえすれば直ちに耕地化され得る土地約三万五〇〇〇坪、ニ 旧工場跡の鉄骨が残っている所が約一万坪、ホ 旧工場の射撃試験場其の他鉄骨コンクリートの残っている所約五〇〇〇坪、ヘ 旧工場の賠償機械工具が格納され立入禁止になっている所が四万五〇〇〇坪、ト 年間収穫高、米二〇石、麦三〇〇石、甘藷約七万貫、馬鈴薯約三〇〇〇貫、蔬菜・根菜・豆類等若干、チ 耕作者の内訳、純農家約一五〇戸、兼業農家約三〇〇戸、但し兼業農家は主として養豚、馬力挽、土工等の貧困労働者、其の他該耕作地の耕作によって生計を維持している戦争未亡人其の他の生活困窮者が約五〇戸であった。