この土地、正確には一五万二二〇九坪(五町七反)実測一七万坪を、良元村当局および村議会は財政上国営競馬場とすることが有利と考え、関係方面にその誘致について運動した。二十三年五月、日本競馬会より、この地に仮競馬場を設置したい旨の申入れがあったので、村当局は緊急村会協議会を開き各議員の意見を聞き、賛同を得た。良元村長・議会および農地委員長は五月十二日、「農地問題その他については全幅の支援をすると共に、工事遂行上支障を来たさざるよう援助することを確約」した。
このことを聞き知った耕作者は、同年五月十五日土地取上反対村民大会を開いて「良元村耕作者同盟」(耕作利用者四九三名中三七五名が加入)を組織し、村当局に反対の意志表示をした。また村内の各所に壁新聞をはり、村民に訴えた。同耕作者同盟は、日本共産党・日本農民組合・部落解放全国委員会・沖縄人連盟・兵庫県地方産業別労働者会議等の援助のもとに、良元村農地委員会に対し、当該地を農地として即時買収するよう要求し、また同年五月三十日には第一九回兵庫県農地委員会に対して陳情した。県農地委員会は、特別委員会を設け、調査斡旋することになった。
このような事態の推移をみて村当局は、同五月三十日村会を開き競馬場誘致対策について審議することにした。村長は、まず当時の状況を報告し、六・三・三制実施にともなう中学校建設・小学校増築、警察費の負担は年間五〇〇万円を下らないし、また道路や橋梁、救護方面にも多額の経費を要するので、何とかその財源を獲得することが必要である。競馬場の設置はこの点において寄与するであろうし、観光宝塚としても誤りない方向である。すでにその設置は満場一致で決定しているが、場所の変更で一、二名の反対があるので、本案を上程したという意味のことを述べ、また、耕作者に対する対策としては報償や競馬場での雇傭を斡旋し、生活の憂(うれ)いなきよう計りたい旨を述べた。協議の末、賛成二一、保留一で、旧川西航空跡地へ競馬場誘致のことが決定した。