非農家化・兼業化

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昭和二十五年から四十五年までの間の農業戸数・専業・兼業農家数を表98に示した。それによると第一に、農家総戸数の減少がみられる。農業をやめて、勤め人や労働者・自営業者になったものであるが、それは、市域全体で七一七戸(三二・九%)、良元一四七戸(三二・二%)、小浜二〇四戸(四〇・六%)、長尾三〇六戸(四四・五%)と、きわめて多い。ただ西谷だけは六〇戸(一一・二%)である。
 

表98 宝塚市域の専業・兼業別農家数および構成比

昭和25年昭和35年昭和40年昭和45年
総戸数専業兼業総戸数専業兼業総戸数専業兼業総戸数専業兼業
第Ⅰ種第Ⅱ種第Ⅰ種第Ⅱ種第Ⅰ種第Ⅱ種第Ⅰ種第Ⅱ種
宝 塚 市2,1818845807171,8443546058851,6741115939701,4641811911,092
 良元村456203871664104011425637912902773092011278
 小浜村5021841281904937413328637725992532981634248
 西谷村535237182116519145204170506532032504754183351
 長尾村2-1688260183245422951541734122120119038210463215
宝 塚 市100.040.526.632.9100.019.232.848.0100.06.635.458.0100.012.413.074.6
 良元村100.044.519.136.4100.09.827.862.4100.03.223.773.1100.06.43.690.0
 小浜村100.036.725.537.8100.015.027.058.0100.06.626.367.1100.05.411.483.2
 西谷村100.044.334.021.7100.027.939.332.8100.010.540.149.4100.08.617.573.9
 長尾村2-1100.037.826.635.6100.022.536.541.0100.05.148.846.1100.027.216.556.3

「農業センサス」による〔注〕昭和25年長尾村は分村以前の数値である


 
 第二に、農家としてとどまっているものの専業・兼業の割合が急速に変わってきた。その構成比は昭和二十五年の西谷地区は専業農家四四・三%、Ⅰ兼(第Ⅰ種兼業農家)三四・〇%、Ⅱ兼(第二種兼業農家)二一・七%であったが、三十五年にはⅠ兼が最も多くなる。四十年には専業が減じⅡ兼が増大した。四十五年にはⅠ兼が大きく減少してⅡ兼が大幅に増大した。専業農家の比率が高かった地区もⅠ兼が多くなり、しだいにⅡ兼が増加し、四十年以降Ⅱ兼農家が圧倒的多数となり、専業農家がきわめて少なくなった。
 小浜・良元は、二十五年にはまだ専業農家が相当数あるが、すでにⅠ兼農家よりもⅡ兼農家が多く、三十五年に至ると、専業の大幅減少、Ⅱ兼の大幅な増大となる。四十五年までの間に専業・Ⅰ兼の農家はしだいに減少して、Ⅱ兼が極度に多くなった。良元の場合は、そのなかから専業農家がわずかに増加しⅠ兼が大きく減少した。長尾は小浜・良元と同様であった。しかし三十五年には専業は減少しⅠ兼・Ⅱ兼はともに増大し、四十年には専業農家比率が大幅に低下し、Ⅰ兼が増加した。四十五年にはⅡ兼が増大し、Ⅰ兼が三二%も減少したが、専業が二二%も増大した。良元・長尾は、専業農家とⅡ兼農家の実数も増加している。この時期の小浜・西谷の専業農家は減少したが、しかし減少の比率は小さくなった。
 このような各村の動きが転々と急速に変わったのは、戦後の経済政策と農政によるところが大きいが、とりわけ三十三年以降の第一期経済高度成長政策と、三十五年以降の貿易の自由化、四十一年からの労働力不足などが与えた影響は、きわめて大きかったといわねばならない。ただ四十年から四十五年へかけての専業農家の増大は興味深い現象であり、農業の新しい方向を示すものであるかも知れない。注目すべきことである。