米国教育使節団と日本教育家委員会

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終戦にともない、文部省は学徒動員を解除、戦時教育令を廃止し、学校教育の正常化にのりだしたが、新しい戦後の教育については暗中模索の態であった。
 連合軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)は、日本人教育者や文部省の役人から情報を集めていた。昭和二十一年(一九四六)一月九日GHQは日本政府に対して覚書「日本教育家ノ委員会ニ関スル件」をおくり、米国教育使節団の来日を予告した。使節団は日本の従来の教育に関する調査をおこない、GHQと文部省に対し日本の教育改革に関して助言する予定であるから、使節団の仕事を容易にするため、日本側の協力委員を任命するよう文部省に指示したものであった。日本教育家委員会は使節団帰国後、教育改革の常任委員会に発展し、漸次改革案を提出する任務をもちCIEがその過程を監視することになっていた。
 CIEは集めていた情報を整理し、「日本の教育」という二月十五日付の報告を、すでに大判一三二ページにまとめていた。昭和二十一年三月初め、米国教育使節団が来日し、この報告書をもとに、日本側教育家委員会の助けをかりて報告書を作成し、三月三十日マッカーサーに提出して帰米した。
 日本側の教育家委員会(委員長・南原繁)は、米国教育使節団の報告書が書かれる以前に、戦後日本の教育改革の基本線を、すでに秘密文書として使節団と文部省に提出していたといわれている。また戦後最も早く結成された教員の全国組織である全日本教員組合も、二十一年三月二十六日米国使節団に会見し、教育民主化の要求を提出していた(国民教育研究所編『近代日本教育小史』)。