二十二日には小浜村長北俊三、助役坂西雅一等村当局者臨席のもとに開校入学式を挙行した。一年は義務制、二、三年は希望者が入学したが、学級数および生徒数は表99のとおりであった。三年と二年は旧青年学校校舎を使用し、一年は小浜小学校の旧校舎を使用することにしたが、生徒用机・腰掛などがまにあわなかったので、それらのそろう五月五日に始業とせざるを得なかった。なおこの日、校長および八名の教諭と用務員に三月三十一日付の辞令が手渡された。
表99 昭和22年4月22日小浜村立宝塚中学校入学生徒数
学年 | 学級数 | 生徒数 | ||
---|---|---|---|---|
男 | 女 | 計 | ||
人 | 人 | 人 | ||
1年 | 5 | 125 | 100 | 225 |
2年 | 2 | 48 | 36 | 84 |
3年 | 1 | 18 | 12 | 30 |
計 | 8 | 191 | 148 | 339 |
「小浜小学校沿革史」より
五月五日に始業式をおこない、担任を決定した。職員室がなかったので家事室を充当し、不自由ながら校務を執ることにした。五月九日教諭一名が着任した。五月十五日は箕面方面へ全校遠足、十九日は山崎校医による衛生講話、二十日自治会結成、二十四日校友会指導者として、科学・音楽・茶華道・被服・図書・陸上・野球・排球・卓球・庭球・登山の各部担当教諭を決定した。二十七日には小浜御坊境内を女子運動場として使用の契約を結んだ。運動場には元運輸省の建物があり、使用することができなかったのである。七月十九日には第一学期を終わり終了式をおこなって、八月三十一日までの夏季休暇に入った。八月二十日にP・T・Aの発会式を挙げ、会長冨永林太郎・副会長西田小治郎のもとに総会を開いた。
九月一日第二学期始業式以降、翌二十三年三月二十四日までに、教諭の着任および新任が九人、離任が三人で出入がはげしかった。三月二十三日の第一回卒業生徒数は男一四名、女七名であった。
小浜村立宝塚中学校の開校年度の状況はおよそ以上のとおりであり、校舎・運動場がなかったことは、たいへん不便なことであった。
昭和二十三年度も新校舎ができないので、二十二年同様、青年学校を本館とし、小浜小学校から五教室を借り、また講堂も借用した。本館は三年の二組と職員室・校長室・家事室とし、一年の五学級は小浜小学校の五教室で、二年の五学級は宝塚小学校の五教室を借りて授業をおこなうことにした。宝塚小学校の教室は修理を必要としたので、その間本校で一、二年が午前午後交代の二部授業をおこなった。運動場は各小学校と共同使用とし、女子運動場としては二十二年同様小浜御坊境内を借用した。
五月四日には宝塚小学校の教室修理が終わり、二年五学級を宝塚小学校に移し、分校とした。
これより先、小浜村長は二十三年一月十三日に村会へ、「中学校建築臨時専門委員設置条例制定について」の議案を提出した。一月二十四日にはこの件に関する専門委員会が成立した。村長は当時の小浜村の財政事情を、小浜村告示第一号によって公表し、つぎのように村民に訴えた。「本村は入場税の地方委譲によって昭和二十三年度の村財政は非常に恵まれているのでありますが、新制中学校の新築並びに地方自治体警察及消防の設置による新たな経費の負担と昨年の二回に亘(わた)る大水害の復旧費に多額の経費を必要とし、且つ諸経費殊に人件費の増嵩による経費の負担によって、猶十二月末日においては百万円の一時借入金をしてゐる状態でありますから、村の秩序や平和を破壊し祖国の再建を阻む様な一部の言動に惑はされる事なく一般村民各位の御理解により、本村をより以上発展せしめるため納期内の完納を切に望んで止まないのであります」。
また、同村告示第二九号の二において、「本村の唯一の財源である入場税が地方税法の改変によって、六月以降大幅の制限をせられることになったが、支出においては中学校建築費等既定事業費の外臨時に災害復旧費等多額の出費を要するので、本年度の村財政は極度の窮迫を告げることは必至であります。」と事情の変化を述べている。
小浜村は、昭和二十三年七月二十七日に、村長は「昭和二十三年度において新制宝塚中学校々舎を建築せんとする」件を専決し、八月二十七日に「臨時急を要したので自治法第百八十条の規定によって」専決したことを村議会に報告している。同日、中学校敷地として小浜村小浜字代地九四番地の一外一三の武庫川畔の地三町四反二畝三歩(一万〇二六三坪)を六〇万円で買入れた。この地は十二月三十一日にいたり進駐軍用地から解除された。
昭和二十四年二月この地に新校舎建築の杭が打ちこまれた。五月中に竣工の予定がおくれて、八月下旬に北館のみ竣工、十二月六日南館が竣工、二十五年二月八日体育館が竣工し、三月十一日県による第一期工事の竣工検査がおこなわれた。
昭和二十四年度の宝塚中学校の学校運営計画は、新校舎の竣工を五月として、それまでの一カ月余の間は三年生五学級を四学級として前年通り宝塚小学校におき、一、二年生は本校において午前午後の二部授業をすることにしていた。しかし工事は進まないので、五月一日小浜小学校の講堂を二分して一年生の二学級を入れ、二年生は五学級を四学級に編成して、二部授業をやめた。北館が竣工したので、校長室・職員室・音楽室・工作室などを定め、九月五日には宝塚分校の三年生を北館に移した。一年生は南館の竣工まで青年学校校舎および小浜小学校で授業した。十二月になって南館が竣工し一年生が入り、ようやく全校生が本校に会することができた。翌二十五年四月一日体育館において、第一期工事落成式が挙行され、来賓のなかには敷地確保に特別の計らいをした米軍政部からの三人の姿もみえた。