雲雀丘学園

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阪急宝塚線の沿線雲雀丘は、長尾山系の南側斜面の住宅地である。大正四、五年ごろ阿部元太郎によって高級住宅地として開発されたことはさきに述べたが、ここに住む人たちにとって困ることは学校の問題であった。行政的にはこの地が川辺郡西谷村切畑に属しており、この村の小学校は長尾山を越えたはるか彼方にあり、子どもの通学などとうていできないところであった。そこで開発者阿部は、財団法人雲雀丘学園を設けたが、まもなく廃校になった。その後別所彰善の精常園のなかの生成学園が特別な教育をおこなっていた。
 この住宅地の子どもは、地理的に近い川西村または長尾村の小学校に、校区外からの委託生として通学するか、あるいは遠くの私立学校へ入学する道しかなかったが、多くの親は大阪府池田市にある師範学校付属小学校へ入学させることを希望していた。
 昭和二十四年二月、当時の大阪第二師範学校付属小学校の入学者選抜が、文部次官通達によって抽選でおこなわれることになり、選にもれた場合を考えると、父兄はあきらめきれないものがあった。この問題について、住宅地にあった雲雀丘幼稚園を中心に話会いが始まり、付属小学校のような学校を新設したいという世論となった。
 村関係者は西谷村役場と交渉し、幼稚園関係者は師範学校に援助を仰ぎ、それぞれの立場で学校新設の構想がねられ、二十四年三月二十五日夜両者が会合して雲雀丘小学校創立委員会をつくることになり、委員長には鳥井信治郎を推した。学校長については、かねて大阪第二師範学校長板倉操平に適当な人物の推選方を依頼していたが、板倉校長はこの要請に応じて、付属小学校の若手有能な教諭土井信男と石黒冨貴子を推選していた。村立によるか私立にするかの議論があったが、ともかく急を要するので小学校を設けることを目標とした。私立学校とすれば、基本金や設立準備のための書類などがとうていまに合わないので、村立小学校の分教場として発足することになった。しかし、教育方針その他については独自の立場をとるという、まことに変則的なものであった。

写真249 村立西谷小学校雲雀ケ丘分校
(雲雀丘学園提供)


 三月二十七日西谷村村会は分教場設置を議決した。しかし創立・建設委員長は一方的に推していたため本人の承諾がまだなかったし、また教職員についても決定したことは何もなかった。
 四月十五日雲雀丘幼稚園において、開校式と同時に一年生の入学式をおこなった。式は西谷小学校雲雀丘分教場としておこなわれた。西谷小学校長北内武夫の式辞に始まり、西谷村長西畑律のあいさつで終わることになっていた。新一年生男子二二名、女子一四名の父兄は、子どもを付属小学校の雲雀丘分校に入学させるようなつもりで式に参列した。ところが先生は一人も出席がなしという奇妙な式であった。これは辞令のない教員は式に参列できないという視学官の命があったからである。来賓としては村長、師範学校長、付属小学校主事、雲雀丘幼稚園長などであったが、その前で北内西谷小学校長は、今日までお世話くださった先生として、土井・石黒両人を紹介した。

写真250 雲雀丘学園開設当時
(雲雀丘学園提供)


 授業を始めなければならないが、辞令の出た先生は一人もなかったので、北内校長が毎朝西谷村大原野の本校からバスと汽車と電車とで雲雀丘分教場まで出勤することになり、教室は幼稚園を借りることになった。
 五月になって、付属小学校の土井教諭に兵庫県への出向が許され、辞令は七月になって出たが、石黒教諭には許可がなかった。そこで北内校長に代わり土井教諭が分教場責任者となり、石黒教諭はそれを助けるということになった。
 雲雀丘学園は昭和二十五年八月二十四日にいたり、私立学校として認可された。この年十二月一日生成学園児童七四名を受入れた。二十七年三月九日には中学校設置の認可があり、翌二十八年四月十五日男女各一組、男子二六名、女子二一名で開校し、板倉操平が中学校長に就任した。昭和三十年三月一日高等学校設置が認可され、三十一年四月七日男女各一組男子五五名、女子二四名で開校式をあげた。