村と「むら」

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農地改革後の農業・農家の動向を、第二節では宝塚市成立以前の四カ村単位でみた。しかしながら農村の日常の生活は「むら」、すなわち村落においておこなわれているのであって、それはほぼ明治以前の村の領域であり、明治二十一年の近代的町村制による町村が成立したとき、そのなかの部落になった地域である。宝塚市のなかには四カ村二〇以上の部落があった。それらの領域に永住する人々がしばしば「地下(じげ)」とよぶ「むら」における農業生産と生活こそがいきいきとした現実の生活なのである。
 ここでは昭和三十年前後のむらの生活を、できるだけ詳細に記録しておきたいのであるが、宝塚市内のすべてのむらについてそれを記すことは、現在ではもはや不可能に近いこととなった。昭和三十年代後半以降の変化は、これまでかつてなかったほど、あまりにも急速であり、またはげしいものであって、村落は崩壊してしまった、といわれるほどの変ぼうを遂げたからである。そこで昭和三十年から三十一年にかけての状況がくわしくわかっているひとつの村落、旧西谷村の長谷・芝辻新田に焦点をあわせ、そのほかいくつかのむらの状況を加えて記すことにしよう。
 長谷と芝辻新田とは、もと別のむらであったが、明治三十年四月に合併したのであって、両者が取り交わした合併契約書については第四章第五節に述べる。