農地改革以前と以後の地主・小作関係

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農地改革以前は、むらのなかの家々に土地所有面積の大きさによる差違があって、それによりむらのなかの経済的・社会的・政治的地位が定まっていた。集積された多くの田畑を他の家々に預け、収穫量の約半分を年貢すなわち小作料として取り、生活の基礎としていたむらの御大家の旦那とよばれる寄生地主の家があったが、それはどのむらにもあったというわけではない。他の家々に貸付ける土地もあるが、自分の家でも農業生産に従事していた耕作地主は、むらに何軒もあって、むらの日常生活の運営の要となっていた。このような階級に接続していた層は自作農であり、田畑などの土地の所有者であるという点では、耕作地主と共通の小土地所有者意識をもっていたが、貸付地をもたない点では中立的な立場にあった。小作農は田畑や山林採草地をほとんど所有せず、耕地を地主から預かって小作し、時には宅地や家屋さえも借りていた農家であり、収穫量の半分を小作料として納めなければならない家計の苦しい階級であった。
 地主と小作農との関係は大正の中ごろ以降しだいに田畑の単なる貸借関係に変化してきたが、もとは農業においてはもちろん日常生活に至るまでの多面的な関係があった。小作農が生活に困ったときには、地主が金銭や物品を貸したり与えたり、婚礼などのときは膳・椀・銚子・盃・屏風を用立てるなどして助け、また地主家が必要とするときは小作家が労力を提供するというような側面があり、恩と義理とが結びついた関係でもあって、それらが一定の儀式によって親方・子方という関係を結んでいた場合もあった。

写真253 長谷の田園風景


 大正年代の終わりごろから農民運動や小作農の自作農化が伸展するにつれて、このような関係は漸次解消してゆくが、第二次大戦はそれをいっそうおし進めた。戦後の農地改革は、従来の諸関係が残存する基盤をほとんど解消した。むらの家々は自作農になり、その限りにおいて農家は平等の立場に立ったのである。しかしながらさきに述べたように山林採草地の所有や経営耕地面積の広狭などは変わらず、農家の間の格差は残存し、それに支えられて過去の諸関係が意識のうえにも残り、雇用関係に反映した。これらの諸点は農業経営上の旧地主自作上昇線と新自作上昇線との類型の相違にあらわれた。むらの経済的・社会的・政治的生活におけるリーダーシップは、むらの上層農家が握るのであるが、その上層にどの農家が登るかは、まず農業経営において右のふたつの道を対抗的に競争して進み、どちらが優勢となりそれを維持することができるかという現実の推移にかかっていた。むらの最高の役職は、旧地主自作線の前進が優勢であった間はその線上の農家群が占めていたが、新自作上昇線が優勢になり、前者をしのぐ状況があらわれるに及んで、その線上の農家群が役職の地位を占めるに至る。むらのなかでは戦後そのような社会的勢力の変化がみられたのであった。