「かぶうち」の伝承

520 ~ 522 / 620ページ
四戸の「いっとううち」の人々の親類づきあいは、本人が死亡することによって消滅するが、家々の系譜上の本末という関係でつながっている「いっとううち」は永代連続するものであって、消滅するものではないと考えている。そして先祖が山を切り開き開墾し、子孫の繁栄を願って地神を祭ったという草分け伝承を有し、これまでに一二戸にも増加したことがあるが、現在は四戸になったという。これらの間のつきあいとしては、分家から本家へ中元や歳暮の贈りものをし、分家が困ったとき、本家は金銭を貸したり、子どもの入学時に保証人になったり、就職の世話をし身元保証人になったりして、特別な関係の家柄だから、助けあうのが当然であると考えている。法事や盆の墓参、墓掃除のとき、あるいは先祖講を開くときは「いっとううち」全員が集まっておこなう。

写真254 下佐曽利松田家の地神


 一一戸の「かぶうち」の場合は、家々の本末の系譜関係の認知が明確ではなく、同族意識も弱い。「かぶうち」のつきあいも、むらのなかでの一般的なつきあいと特に変わったところはないが、この「かぶ」は「味間(あじま)地主利趣権現縁起」という写本を有し、約四百年前に遡(さかのぼ)るつぎのような伝承を有している。
  丹波の波多野秀治が明智光秀に滅ぼされたとき、当才子の四男秀若丸は乳母に抱かれて多紀郡味間村文保寺にのがれ、ここで成長した。阿い坂のかな山奉行余部長兵衛と懇意になり、その世話で元服し名を源左衛門と改め百姓となり、篠山の城主松平山城守忠国の姫を娶(めと)った。源左衛門は味間村で高百石余の新田の開発を許され、諸役御免を仰付られ繁盛したという(このむらは明治十八年十二月までは波多野源左衛門分であったが、それ以後は味間奥村に合併され、明治二十二年味間村となる)。
  さて、源左衛門家の娘おなぎは寛永三年ごろ大阪の役の落武者摂州川辺郡多田荘佐曽利村の松田治郎太夫の嫡子源蔵に嫁した。そのとき源左衛門は、味間村の岩神と称する霊妙の岩に取付いていた小石ふたつを、永くわが氏神とせよと、娘に持参させた。娘はこれを婚家の屋敷の側の小祠に祭り、地主若宮(現在の地神)とよんだ。両人の間に生まれた嫡男は本家を継承し、次男源左衛門は平井家を、三男三良衛門は蔵本家、四男三良兵衛は脇田家を興した。これらの系譜につらなる家々を味間一統と称し、この一統の心得を次のように記している。「一統之内ハ何事ニよらす相互ニ救ひあい、心悪敷人阿らば随分意見申聞かせ正直まっすくニ成ようニ心懸くへし。神は非礼を受けたまわす、他門之人々ゑ別而非義申事堅く相止め、利なき言分公事出入いたさす掟と火と借銭とを恐れ毎日之算用を胸ニ持ち、親ニ孝行夫婦兄弟睦敷永く一統相続を可願と。敬白。時明和三年十一月廿三日」
  (これを写したのは寛政七年(一七九五)で、当時六六歳の松田宇兵衛であった。なお味間の源左衛門家に関しては、すでに歴史的研究がなされている)。
 右の伝承の真偽は別として、近世初期の作人筋や侍筋の本百姓株にその淵源(えんげん)を有すると思われる「かぶうち」が、このような落武者帰農の伝承を有することや、「かぶうち」によるかぶ講あるいは先祖講の最初の記録が明和・安永のころ(一七七〇前後)にはじまり、かぶの定めあるいは掟(おきて)が寛政ごろにつくられ、また丸石を依代(よりしろ)として先祖神・地神あるいはかぶの神を祭ることは、丹波一円および摂津山間部に広くみられるところである。歴史の古いむらは、このようなひとつないし幾つかの「かぶうち」によって構成されていることが多く、下佐曽利もそのようなむらである。
 下佐曽利の隣り長谷では「かぶうち」とはいわず「同家(どうけ)」とよぶ。同家が幾つか集まるか、あるいは同家を核としてその他の家が加わり、現在の墓講が構成されている(表106)。墓講は墓地を共同にする家々の集団であり、長谷には八つの墓講がある。葬式のときにはそれが墓同行とよばれ、ふたつの墓講が墓同行となることもある。長谷では同家が先祖神や地神を祭ることはないが、毎年八月七日に墓掃除をした後、墓講を開く。