いろいろある講

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むらの人々の信仰や娯楽を通じての相互理解と協同の意識を確かめる生活では、家を単位とする講を構成していた。長谷むらを例にとると、五穀豊穣・家内安全を願って伊勢神宮に代参する伊勢講、雷除や火除の神と信じている愛宕(あたご)神社への代参の愛宕(あたん)講、水難のないことを祈る金刀比羅(こんぴら)講、高野山信仰の高野講、徹夜して酒食の宴をする庚申(こうしん)講、その他行者講、念仏講、観音講、妙清講があり、経済的な相互扶助を目的とするものに頼母子講があった。講は小集団である場合が多く、後の五つの講を除き、前の五種の講は三ないし五の講組みになっていた。では、どのような関係の家々が、それらの講を組んでいたのだろうか(表107・106)。
 

表107 長谷むらの講組み

講名寄せ講(統一伊勢講)
区および農家番号上伊勢講西伊勢講大正伊勢講昭和伊勢講上愛宕講中東愛宕講西東愛宕講中西愛宕講昭和愛宕講旧金刀比羅講東金刀比羅講昭和金刀比羅講上高野講中高野講西薬師高野講昭和高野講長谷高野講
地蔵の区1
4××××
3
19
24
7
6
2
20
5
8
52
薬師の区21
44
25
26
42
43
46
45
中の区41
9
23
27
17
14
12
11
22
47
13
畑の区29
39
10
31
28
15
37
38
36
30
53
54
55
上の区32
35
49
51
50
40
48
33
34
16

 
 伊勢講は、西・上・大正・昭和の四つの講組みになっており、そのうち古いのは西と上の講である。西伊勢講に所属するのは、地蔵と薬師の両区に居住する大部分の歴史の古い家であり、中・畑の両区の居住戸でこの講に参加するのは、地蔵・薬師両区の古い家の古い時代の分家であるか、またはもと両区のいずれかに居住していた家である。上伊勢講は、すべてが中・畑・上の各区の居住戸である。大正伊勢講は、三、四代前の分家やそのころにむらに入り古い家の名跡を継いだものと、芝辻新田の家々によって構成されている。昭和伊勢講は、昭和になってからの新しい分家と戦後の入村者によって昭和三十二年につくられた。
 愛宕講は五つあるが、西愛宕講は地蔵・薬師・中の各区の古い六戸の本家とそれらの分家によって構成されている。中東と中西愛宕講はもと中愛宕講であったが、戸数が多くなり、「ゾゴト」(代参して帰ってきた者を中心に講員の家族全員が講宿に集まりともに飲食すること)がやりにくくなったので、昭和初期にふたつに分かれた。中西愛宕講は地蔵・薬師・中の区の家々のうち、西愛宕講に入っていないものにより構成され、中東愛宕講は上の区の家々とそれに近い中・畑両区のそれぞれ二戸が参加していた。上愛宕講は、畑の区の六戸と中の区の一戸とにより構成されているが、この一戸は畑の区の三戸と親類関係にあり、明治初期に加わったという。昭和愛宕講は新しい分家と戦後の入村者によって構成された。
 金刀比羅講は三つあり、旧金刀比羅講は地蔵・薬師・中・畑各区の古い本家・分家の家々によって構成されており、東金刀比羅講は上の区の全戸と他の区にある分家をともなった大正中期の講組みである。昭和の講は右のふたつに入っていないものによってつくられた。高野講は四つあり、西高野講は地蔵・薬師両区の家々、中高野講は中の区、上高野講は上・畑両区のもの、昭和高野講は右のいずれにも入っていないものにより構成され、芝辻新田のものは、宗旨が異なるのでこの講には参加していない。
 講の組みかたの歴史的変化を右にみたが、これによってむらの社会構成が、本家・分家の集団の連合から、地域的連帯による講組みの連合に変わってきたことを知ることができる。しかも各家と各講との関係は極めて錯綜した状態にある。

写真255 長谷の庚申塚