講の記録によれば、講営の仕方もそのときどきに変化してきたことがわかる。昭和三十二年以降の変化は急速かつ大なるものであった。金刀比羅講帳その他によると、昭和三十一年に「部落に於いて公民館建築の声起こり、去る三月一日集会に於いて現講は有姿の儘(まま)にして、毎年順廻して講営をしておったのを、来年度より新装成った公民館に於いて部落の方針に従って講員名簿順にて講営を続ける」ことになった。三十三年には他の同種の講とともに公民館で営むことにし、部落新生活改善の申合わせにより、肴は折詰め一人当り一〇〇円、酒は同じく一合、茶菓は二〇円とし、御飯は廃止した。三十五年には金刀比羅各講相談のうえ合併することにし、三十八年には講員協議の結果、ついに代表講として四つの伊勢講をひとつに合併して講営し、愛宕・金刀比羅・高野の各講は、将来復活の議が起こるまで、休講することとなった。
講営は早くやめたが、行事の一部をなお続けている講に庚申講がある。輪番制の当番の家は秋の庚申の日に、御神酒・海の幸・山の幸・畑のものを庚申塔に供え、赤飯一重とみかん五箇を講員に配ることになっている。費用は当番の負担である。この講は三つあり、地区別に構成されている。道谷にある庚申塔を対象とする道谷の庚申講は、中の区の居住戸によって構成されているが、他の区に本家をもつ三戸は参加していない。また薬師の区の一戸が参加するのは、農地改革以前この庚申講田を小作していたからである。畑ン所の講と上の講とは、それぞれ門畑とイヤ谷小畑の庚申塔を対象とした畑の区と上の区の講であるが、新しい分家や新来住者および芝辻新田の人々は加入していない。なお地蔵・薬師の両区には庚申塔はない。
行者講は、このむらの中上山に八大竜王を祭り、九月七日講員が祭礼に参加し、三戸の当番が中心となって般若心経を誦し、下山して役行者がまつられているナギ町谷通りの地に集まって、普光寺住職を中心に護摩供養をした後、酒と肴をいただき、配られた餅と幣をもって帰る。この講はむら全体の講であるが、当番は固定してしまって交替がなくなった。
念仏講は十二月十五日ごろ当番の家で開かれる。もとは十三仏真言を唱えたというが、今日では約一〇人の雑談の講になっている。また観音講はおばあさんの講で、六月と十一月を除き毎月十七日普光寺に集まり、輪番の二名の当番が用意した食事をして雑談の後、本堂で読経、御詠歌を唱え法話を聞く、約二〇人の講である。
妙清講は、長谷妙見を祭る講である。長らく行方不明であった本尊仏が村外で発見され、この地に迎えて昭和二十六年から再開された。信者は西谷地区のほか猪名川町や三田市にもあり、約八〇〇人を数えるということで、この妙見さんは崇敬社的性格をもっている。この講はむら全体の講で、三月の初午大祭と九月の八朔(はっさく)大祭のときに開かれる。
右はひとつのむらの種々の講とその変化の事例である。どのむらにも講が幾つもあったが、戦中戦後に講営がおこなわれなくなったり、ひとつの講だけが残っていることが多い。