むら氏神は生まれた土地の神、すなわち産土(うぶすな)神であって、むらは全体としてひとつのものである、という意識の象徴であり、その祭祀行事はむらの人々の一体感や協同の意識を強める意味をもつものであるが、明治初期以降むらの居住者たる氏子のなかから選出された氏子総代の世話により、神職に来てもらって祭祀がおこなわれるところが多くなった。しかしながら、いまだに祭祀組織が一定の資格をもつ家の人々によって構成される株座や村座の形態をとる宮座の場合や、宮座から単なる氏子組織への過渡的形態と思われるところもある。伊孑志むらの伊和志津神社の祭祀組織は、ふたつの姓の家々約二〇戸による宮講であり株座の形をとるが、明治期にその他の姓の家々によって新講がつくられたという。むら全体でひとつの村座的祭祀組織を有し、それが氏子組織への過渡的形態をしめしていると思われる例を、長谷むらの素盞嗚(すさのお)神社についてみることにする。
寛政十一年(一七九九)の「差上申村明細帳」によれば、仁王門・寺・社など現存するものはすべて、文禄三年(一五九四)にはすでに存在し、牛頭(ごず)天王社は真言宗末寺普光寺の寺内鎮守神であったが、このころはすでにむらの氏神の性格を帯びていたものと思われる。このむらの場合、芝辻新田と合併する以前の長谷むらのすべての家の檀那寺は、凉瀧山普光寺であって、その普光寺の鎮守神である牛頭天王社すなわち明治以降の素盞嗚神社が、むら氏神であるという関係にある。氏子総代と檀徒総代とは別れておらず、まったく同一の家々四戸が昭和三十年ごろあるいはそれ以前から今日まで、神社の修理や神社持山の管理、十二月初旬の斎米(ときまい)の収納、普光寺が一年間に使う薪を二月初旬に集める薪よせ、寺運営や戒名の院号に関する相談など、氏子檀徒総代としておこなっている。
祭神として金山彦命が合祀されているのは、このむらに千本鉱山があって、古くは長谷村も銀山付村のひとつであり、またむらの人々が働きにいったからであろう。寛政年間には「鎮守祭礼無御座候」とあるが、これをどのように理解すべきであろうか。
現在の祭祀行事は、一年交替で近隣の五戸ずつが順番につとめるオトウ番によって準備される。毎月末に、鳥居から神社の境内を清掃し、六斎日(仏教で戒をかたく守り、事を慎むべき悪日)には洗米・灯明をあげ、年六回の祭祀には御神酒・水玉・塩・稲穂・洗米を供え、海の幸として鯛または昆布・剣先鯣(するめ)、山の幸として栗・柿・みかん・松茸・椎茸、畑のものとして大根・つくねいも・人参(にんじん)・牛蒡(ごぼう)のうち奇数種を神前と普光寺本堂に供えなければならない。オトウ番をつとめることはむらの人の義務であって、新来住者にとってはこの義務をはたすことが、むらの人と認められるための前提条件のひとつであり、また部落有財産の権利を得るための条件でもある。
十月十七日、秋祭りのオトウ行事には、当番は紋付・羽織・袴を着用する。拝殿で神官が修祓(しゅうばつ)し祝詞(のりと)をあげ、神官・区長・氏子総代・むらの役員・農会長・青年団支部長・消防団長・オトウ番の順で玉串奉奠(ほうてん)の後、むらの人と認められている全戸の人が長床に上り、定めの位座について直会(なおらい)がおこなわれる。その夜オトウウケ・オトウオクリすなわちオトウ番の交替がおこなわれるが、その印は、御膳箱の受け渡しである。この間に、この日むらじゅうをねり歩いた太鼓の宮入りがある。現在は車をつけて太鼓をひっぱり、そのうえに乗る者は小学校六年生男子四人ときめられているが、中学生でもよい。伊孑志の株座である宮講や、長谷の村座行事であるオトウは、いつ発生してどのように変化したかはわからないが、いまだに崩れていない。