祭祀行事の簡略化

529 ~ 531 / 620ページ
むらは、いわゆる都市化の波におされて、農地や山林が宅地となり急速に変化しているが、村座形態の宮座の当番制と神事がなお残り、また新しい祭祀行事が加わった場合を、良元村鹿塩でみることにしよう。
 約五〇戸の鹿塩の氏神は熊野神社である。境内には、このむらの古い家筋と伝えられる原・田中・坊勢という三姓のそれぞれの氏神が昭和のはじめまではあったが、いまはない。阪急今津線ができたときこの境内地は二分され、また昭和三十七年阪急電鉄が宅地を造成するとき、本殿後方の地が削りとられて狭くなった。
 さて、春・夏・秋祭りは宮司と鹿塩むらで選出された宮総代三名が中心となっておこなわれるが、特徴的なことは、正月五日、昭和四十二年以降は三日に御弓行事がおこなわれることである。これは神社境内の神前に直径約一メートルの的をつるし、その裏に「鬼」と書いた紙をはさみ、六人の射手が的を二回ずつ射て、その間に「鬼」をおとす。かつてはその年の作柄を占ったというが、いまは悪疫退散・無病息災を祈る、としている。
 六人の射手は、このむらの約五〇戸の家のうち、むらの南部から順次六戸ずつが当番となり、それらの家々からひとりずつ男がでて奉仕するが、前年中に不幸のあった家は次年にまわる。射手は大正年間までは、御弓行事前、家族とは別火で食事をとったというが、現在はその厳しさはない。当日は六戸のうち一戸を「やかた」として午前中に集まり、風呂で身を清め、装束をつけ、宮総代を先頭に宮司・神職・射手の順に並び神社へ向かう。以前は紋付・袴でおこなわれたが、昭和十八年から三十三年まで中断していたのを、三十四年から烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を整え、復活した。毎月一日の月並祭には、午前六時に宮総代が「しらむし」(小豆を入れないこわめし)一升、酒五合、にしめ三品を神前に供え、氏子全員が参拝し、その月のむらの極め事などを神前で相談した。またそのときに使用する「むしろ」や「ござ」などは氏子が編んで奉納した。しかし現在は、改選しても三戸に固定してしまった宮総代が、「しらむし」を供えるだけの行事になった。

写真259 鹿塩むらの御弓行事