祭りの都市化

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ところで、戦後このむらの山林が開発されて、仁川団地などの住宅が建ち、祭祀行事のひとつに大きな変化が生じた。八月二、三日の熊野神社の夏祭りは宮司と宮総代とを中心とした神事とむらの人による神楽(かぐら)の奉納がおこなわれていたが、昭和四十五年から子ども御輿(みこし)と子どもだんじりがでることになったのである。これにはつぎの経緯があった。昭和の初期から仁川の川沿いの土地は住宅地化してきたのであるが、その背後の山地までが開発されて仁川団地ができたのは、昭和三十四年であった。鹿塩むらの人々は、その領域に建った団地に住む人々やその他新しく転入してきた人々に、とりわけ子どもたちにこの土地のことや氏神の祭りを知ってほしかった。同じ土地に住む者としてともにこの土地の氏神の祭りをしようではないかと、各町内会によびかけ、盛大な夏祭りとなったのである。六月に入って、鹿塩むら領内の各町内会・自治会・商店会の代表者が集会所に集まり、準備の相談がおこなわれる。その後「御神楽券」(三〇〇円)が各町内会などを通じて各戸に配ばられるが、それを受けるかどうかは任意である。券の売上げが祭礼費用となるのであるが、神楽券は福引券を兼ね、景品は大阪のデパートから寄附される。祭礼当日、子ども御輿とだんじりが一台ずつでて、仁川沿いに上流から下流へまわるのであるが、担いだり引いたりするのは小学生であり、参加希望者はたいへん多い。各町内会から二、三人ずつ世話役がでて指導と危険防止にあたっている。伊孑志の伊和志津神社の夏祭りにも、子ども御輿がでるようになった。

写真260 鹿塩熊野神社の子どものみこし